サーカス
今日も港町の広場で舞台の幕が上がる。
夕暮れの空に赤と金の旗が何本も翻り、入口には大きな看板が立てられている。
『王国一座・ル・シルク・ド・ルージュゴルジュ』
身体の一部が楽器になっている楽団が、鐘を鳴らし軽快な太鼓の音を響かせる。
観客席へ集まった人々のざわめきが潮騒を押しのけるように膨らんでいく。
「さあ皆さん! 今宵も驚きと笑いと歓声の時間だ! イッツ・ショータイム!」
赤い燕尾服の団長・ルージュゴルジュが舞台中央へ飛び出した。
最初の演目は、片腕の道化師・シュエットによる玉乗りだった。
白塗りの顔に描かれた赤い涙を揺らしながら、男は一本の足で大玉へ飛び乗る。
三つの燃えるバトンを宙へ投げ、片手片足を器用に使いジャグリングをしてみせた。
「おおっ!」
観客から歓声が上がる。
続いて、桃色の長髪をなびかせたグリヴが空中ブランコへ飛び移った。
義足をものともせず、銀色の衣装をきらめかせながら宙を跳び回る。
巨大な禿頭のトーロは、二人の団員を乗せた大道具を軽々と持ち上げた。
そばかすのパンソンは後転跳びで火の輪をくぐり、緑髪のアルエットは細い綱の上で華麗に舞う。
演目が進むたび拍手が大きくなっていく様子を、シュラは舞台袖から見ていた。
海水を張った大きな水槽の中で、シュラは水色の髪を静かに揺らしている。
「緊張してる?」
アルエットが水槽の縁へ腰を下ろした。
「まさか。もう何回も出演しておりますもの、すっかり慣れておりますわ」
「そう」
アルエットはそれ以上聞かなかった。
シュラは水槽の水へ指を沈めて胸元へ触れた。
そこには布で包んだ人格排泄薬がある。
「シュラ!次だ!」
団長の声が飛んできた。
「承知しましたわ」
水槽の蓋が開くと、シュラは尾びれを大きく振った。
水が跳ね、舞台へ銀色の飛沫が散る。
「人魚だ!」
誰かが叫び、シュラは舞台中央の水槽へ身体を滑り込ませた。
水色の髪が水面へ広がり、照明の光を受けた鱗がきらめいた。
拍手が起こり、シュラは目を閉じ深く息を吸う。
そして、一音、澄んだ声が夜の広場へ伸びた。
波間を渡る風のように高く、低く、細く、柔らかく、歌は海の底から浮かび上がる泡のように広がり、観客席の隅まで届いていく。
子どもが口を開けたまま動かなくなった。
さっきまで酒を飲みながら笑っていた男も、杯を持った手を止めている。
年老いた婦人は胸元で両手を組み、目を細めた。
歌っているうちに、シュラは不思議な感覚を覚えた。
誰もがただ、わたくしの歌を聴いている。
観客席の何十、何百という瞳、その一つ一つが舞台上のシュラへ向けられていた。
背筋が伸びて尾びれが水面を打つ。
歌声が一段高くなり、観客の誰かが息を呑んだ。
そして一斉に、広場を揺らすほどの拍手が巻き起こった。
「すごい!もう一曲!」
「人魚のお姉ちゃん、最高!」
シュラは水槽の中で瞬きをし、頬がわずかに熱くなる。
こんなふうに、わたくしのためだけに向けられた声を聞いたのは、いつ以来だろう。
「もう一曲、ですって」
シュラは小さく呟き、舞台袖から団長が身振りで問いかけてくる。
シュラは笑い、二曲目が始まる。
海を離れた人魚の歌、帰る場所を探す歌、それでも水を掻き前へ進む歌。
歌っているうちに、シュラは気づいた。
観客の歓声が欲しい、もっと上手く歌いたい、もっと美しく舞いたい、この舞台を観客の拍手で満たしたい。
復讐のためだけに陸へ戻ったはずだったのに今、尾びれを動かして舞うことが楽しい。
声を響かせることが、舞台の上から客席を見渡すことが、楽しい。
歌が終わり、割れんばかりの拍手の中でシュラはゆっくりと頭を下げた。
水色の髪が肩から滑り落ちる。
「ありがとうございました」
客席からさらに大きな歓声が返ってきた。
舞台袖へ戻ると団長が満面の笑みで待っていた。
「今日も大成功だ!」
「当然ですわ」
「おお、言うようになったな!」
「わたくしを誰だと思っていますの?」
シュラは胸を張った。
自分で積み上げたものを自分で誇ることが、こんなにも軽やかなことだとは知らなかった。
それからさらに数日、シュラの出番はまた少しずつ増えていった。
昼の公演では子どもたちへ手を振り、夜の公演では照明を落として水槽だけを青く照らす。
団長が派手な口上を叫び、道化師が客席を笑わせ、その最後にシュラが歌う。
最初は、人魚だからという理由で集められた好奇の視線だったが、何度か舞台へ立つうちに、観客は彼女の名前を呼ぶようになった。
「シュラ!今日も歌って!」
その声を聞くたび、シュラは背筋を伸ばした。
ある日、歌い終えたシュラへ客席の子どもが小さな花を投げた。
「人魚さん、きれいだった!」
シュラは花を拾い上げた。
濡れた指先に残るかすかな花の匂いに思わず笑みがこぼれた。
「……ありがとう」
衣装や髪型、照明の位置、音楽の速さ、観客席の見え方、どうすればもっと歌が届くのか、どうすればこの時間をより楽しんでもらえるのか。
舞台に上がる前、シュラは考えることが増えた。
考えを巡らせ、新たな工夫をするのが楽しかった。
ある夜、客席が空になったあとも舞台にはまだ灯りが残っていた。
シュラは誰もいない観客席を眺めながら、水槽の中で尾びれを揺らした。
静かな広場に、昼間の拍手がまだ残っているような気がした。
今は、まだ歌いたい。
胸元の小瓶へ手を添えると灰色の液体は、何も知らない顔で揺れていた。




