網
「薬はこれだな」
オクタヴィアが小瓶を一本、シュラへ差し出す。
濁った灰色の液体の中では黒い粒がゆっくりと沈み、また浮かんでいた。
「絶対に落とすなよ。薬の雨でも降ってみろ、床が人格まみれになるかもしれねぇ」
「それは……確かに困りますわね」
あまり想像したくない光景だった。
シュラは両手で慎重に瓶を受け取った。
わたくしがこれから何をしようとしているのか、小さな瓶にそのすべてが詰まっている。
「それから、陸へ上がるまでの安全だ。魔法の泡で包む。海面までなら、その泡が水圧も冷たさも防いでくれる。海ジョーズに食われる心配もない」
オクタヴィアはシュラの肩へ手を置いた。
「ずいぶん便利なものですわね」
「興味があればお前も魔法を学んでみろ」
オクタヴィアが指先をくるりと回すと、シュラの身体を白く透き通った泡が包み込み、視界が白く染まる。
身体の周囲を覆う泡は触れれば弾けそうなほど薄いが、尾びれを動かしても破れず、むしろ身体の動きに合わせて柔らかく形を変えていく。
「水面から顔を出したら泡は消える。そこから先は自分で泳げ」
「承知しましたわ。お世話になりました、オクタヴィア様……薬、大切に使います」
シュラはオクタヴィアを振り返った。
海底の家と奇妙な薬、自分を拾い上げてくれた魔女。
「薬を使った結果を聞かせてほしい……また会うことがあればな」
オクタヴィアは手を振っていた。
シュラは小さく息を吐き、尾びれを動かした。
泡に包まれた身体は驚くほど軽く、みるみるうちに巻貝をそのまま大きくしたような家が遠ざかっていく。
海底の家が小さくなり、やがて頭上から淡い光が差し込んでくる。
海面だ。
シュラはさらに尾を動かすと、光が近づき泡の向こうに見えていた青が、次第に白く眩しくなっていく。
そして、シュラの顔が水面から出た瞬間、身体を包んでいた泡が一斉にぱしゃん、と弾けた。
海風が頬を撫で、耳に届くのは波の音。
遠くから鳥の鳴き声も聞こえた。
シュラは水面に浮かびながら、青空を見上げた。
海の中から見る空とはまるで違い、眩しさに目を細める。
瓶を握り直して尾びれで水を掻き、海岸を目指して泳ぎ始めたそのとき、頭上から影が落ちた。
ばさっ、と大きな網が海面へ落ちてきた。
「きゃっ!」
網目が尾びれへ絡みつき、逃れようとして身体を捻った瞬間、別の縄が腕へ巻きついた。
「おい、引け!」
「かかったぞ!」
ぐい、と身体が海面から引き上げられる。
「ちょっと、お待ちなさい!」
シュラの抗議など聞こえていない。
漁師たちは力を合わせ、網を船へ引き上げていく。
「重いな!」
「大物だぞ!」
「魚じゃねぇぞ、これ!」
甲板へ網が落ち、びしょ濡れのシュラが、その中央で尾びれをばたつかせる。
漁師の一人が恐る恐る口を開いた。
「……人魚?」
「人魚だ。本物か?」
船上が一気に騒がしくなり、シュラは網を睨みつけた。
「早くこれを解きなさい! わたくしは魚ではありませんわ!」
「キェェェアァァァ! 喋った!」
「驚きすぎだろ!」
こんなところで時間を使っている場合ではない。
「お願いですから、この網を……」
「なあ、これ売れるんじゃねぇか?」
ひげの濃い漁師が、隣の男へ小声で言った。
「確かに、人魚なんて珍しい。見世物にすりゃかなりの値になるかもな」
シュラの眉が跳ね上がった。
「決まりだな」
「待ちなさい、待ちなさいと言っていますの!」
漁師たちは相談を始め、その結果、シュラは港町にあるサーカス団へ売られた。
その名は――『王国一座・ル・シルク・ド・ルージュゴルジュ』。
団長は派手な赤い燕尾服を着た初老の大男だった。
口ひげは左右へ跳ね上がっている。
団長はシュラを見るなり、目を輝かせた。
「人魚だと!? こりゃ客を呼べるぞ!」
「わたくしを物のように値踏みしないでくださいませ!」
団長の隣では、銀色の衣装を着た片脚が義足の女が目を丸くしている。
桃色の長髪を一本の三つ編みにまとめ、顔には星形の化粧を施していた。
「この子、名前は?」
「シュラです! わたくしの話も聞いてくださいまし!」
そのさらに後ろには、巨大な身体をした禿頭の男がいた。
両腕は丸太のように太く、鼻には大きな金色の輪が通っている。
「オデ、その網、破けるぞ」
男が網を片手で持ち上げる。
「破かないでください!」
小柄な少年もいた。
赤い帽子を目深にかぶり頬にはそばかすが散っている。
少年はシュラの尾びれを覗き込み、目を輝かせた。
「すごい、本当に鱗だ。触っていい?」
「触らないでくださいませ!」
団長が豪快に笑った。
「よし! 決めた! 君、すぐに舞台に上がってくれ!」
団長が指を鳴らすと、背後からさらに二人の団員が顔を出した。
一人は顔に白い道化師の化粧を施した片腕が無い男。
片手で三つの赤い玉を器用に投げ上げながら、興味津々にシュラを眺めている。
「人魚の歌って、聞いてみたいよねぇ」
もう一人は背の高い斜視の女性で、鮮やかな緑髪が目立っていた。
彼女は何も言わず、シュラの濡れた髪を見てから、近くの布を差し出した。
「……風邪を引くわよ、拭いてあげようか?」
「お気遣いはありがたいのですが、わたくし人魚ですので」
シュラが布を受け取ると、女性はわずかに笑った。
「あと、わたくしの処遇を勝手に決めないでください!」
シュラの抗議は、港町の喧騒に飲み込まれていった。




