人格排泄薬
ふと、棚の奥の一本の小瓶に気がついた。
他の薬とは違い、瓶には何の飾りもない。濁った灰色の液体が底に沈み、ときおり黒い粒が浮かんでは消えている。
「ずいぶん地味ですわね、これは何でしょうか?」
オクタヴィアは瓶を取り出し、光へ透かした。
「人格排泄薬だ」
「……なんですって?」
シュラの眉がわずかに動いた。
「飲んだ奴の人格を尻から排出させる薬だ。人格はゼリー状になる。身体から出たあとはその状態のまま周囲の景色や気温などを知覚できる。思考することもできるようだ。逆に肉体は人格を失って、ほとんど何も考えなくなる。魔法としては非常に面白い。人格と身体が別々になったとき、それぞれにどんな変化が起きるのか。記憶はどうなるのか、魔力はどちらに残るのか、人格はどこまで自我を保てるのか。調べてぇことは山ほどある」
あまりにも奇妙な説明に、シュラは瓶を見つめたまましばらく言葉を失った。
オクタヴィアは平然と瓶を振り、中の液体がゆっくりと揺れる。
「面白いだろう?」
「……ええ」
その一言を口にした自分に、シュラ自身が驚いた。
シュラの返事はほとんど無意識だった。
頭の中に一人の女の顔が浮かんでいた。
紅をさした唇に華やかな衣装、人を見下すような笑みのエリシア。
シュラの拳が強く握られた。
もし、この薬をエリシアが飲んだら、あの高慢な声はどうなる。
ほんの一瞬そんな考えが過った。
あの美しい顔は?あの身体からエリシアの人格だけが引きずり出されたら?
そんなシュラを見たオクタヴィアが首を傾げる。
「どうした?」
シュラは瓶へ近づき、瓶の中身を見つめる。
目の前の小瓶から視線を離せない。
「……オクタヴィア様、これを譲っていただくことは? わたくし、この薬を陸に持って帰らねばなりません」
オクタヴィアの目が丸くなった。
「要相談だな。お前の髪を交換してくれたら薬を渡そう。もうひとつ何かくれたら海から上がるまでの安全も保証しよう」
シュラはゆっくりと瓶へ手を伸ばした。
海底へ沈んだとき、わたくしの人生は終わったのだと思ったが、もし終わったというのなら。
終わらせてくれた人間に、何の返礼もなく消える必要があるのだろうか。
「いいでしょう。だから……薬を、くださいませ」
その声には、もう先ほどまでの虚ろさがなかった。
オクタヴィアは口の端を上げた。
「取引成立、だな」
「もう一つの条件は、何にしますか?」
シュラが尋ねると、オクタヴィアは腕を組んだ。
「そうだな……お前の脚と人魚のヒレを交換、でどうだ? 人間になって陸に行ってみたいって人魚が稀によく来るから脚の在庫を確保しておきたい」
「……それだけで良いのですか? 脚で良ければ喜んで交換いたします。今のわたくしには、これ以上失うものなどありませんもの」
オクタヴィアの眉が少し下がった。
「助かるぞ。でもその言い方は好きじゃねぇな。ワタシはあくまでお互いに利がある取引を心がけている。失うんじゃなくて交換するだけだ、間違えるなよ」
オクタヴィアは水色の髪を瓶から取り出し、細い糸のような髪が水の中でも生き物のように揺れた。
指先で一束をすくい上げると淡い青い光が髪の間を走った。
オクタヴィアがシュラの肩へ手を置く。
「痛みはあるが長くは続かない、嫌なら途中で止める。それじゃ、始めるぞ」
オクタヴィアが床に魔法陣を描くと青白い光が円を作り細かな文字が水のように流れていく。
シュラが中央へ座ると、オクタヴィアが指を鳴らし、その瞬間赤い髪がふわりと浮いた。
頭皮を思い切り引っ張られるような感覚のあと、髪の一本一本から熱が抜けていく。
赤が薄まり、橙を経て、淡い水色へ変わっていく。
シュラは歯を食いしばって耐えた。
髪が変わるたび、自分の中の何かまで少しずつほどけていくようだった。
最後の一本が青く染まると、水晶窓から差し込む光を受け水色の髪が波のように揺れた。
「まずは髪が入れ替わったな」
赤い髪が入った瓶を抱えたオクタヴィアが満足げに言う。
シュラは髪を一房つまみ目を細めた。
「……わたくし、別人になったようですわ」
「髪だけな。髪型が変われば気分も変わると言うからな。さて、次は脚だ」
オクタヴィアはそう言って、すぐに次の魔法陣を描いた。
シュラは自分の足元を見て、それを見たオクタヴィアが笑った。
今度の魔法は髪よりも強烈だった。
足先の体温が急速に消えていくような冷たい感覚が駆け上がる。
骨が曲がり、身体の内側から皮膚を裂いて何かが芽を出すような感覚に、シュラは思わず悲鳴をあげた。
二本の脚が重なり、一本の長い尾へ形を変えていく。
鱗が生え、淡い銀色の鱗が青い光を受けてきらめき、最後に尾びれが大きく開いた。
「終わりだ」
シュラが恐る恐る尾を動かすと、水が押し分けられる。
身体が軽く、まるでずっと前から知っていた場所へ帰ってきたようだった。
「……無事、動かせそうですわ」
「当たり前だ。ワタシを誰だと思ってる」
オクタヴィアは胸を張り、シュラは自分の新しい身体を見下ろした。
尾びれを二度動かした。
身体が水を捉えるたび海流が髪を撫でていく。青い海が、初めて道に見えた。




