海へ
自室を出たシュラは誰にも声をかけられないまま、ふらふらと歩いた。
廊下を進み、玄関を抜け、門を出て、足は勝手に動いていた。
どこへ行くのか自分でも分からなかった。
アリエーナイ家の紋章が刻まれた屋敷を振り返る気にもなれず、ただ遠くへ、ここではない場所へ、それだけを考えていた。
通りを歩く何人もの人々とすれ違い、シュラは顔を見られないよう外套のフードを目深にかぶった。
海沿いの道へ出ると潮の匂いがした。
風に混じった塩気が頬を撫で、遠くで波の砕ける音が聞こえる。
海が見え、シュラは足を止めた。
青く広がる水面は、空との境目さえ曖昧だった。
「……綺麗」
こんな言葉を口にする余裕が、まだ残っていたのか。
胸の奥は何も動かないのに。
馬糞を浴びせられ、婚約を破棄され、誰も助けてくれず、何を訴えても誰も聞かない。
「わたくしは、何のためにいるのでしょう」
波が寄せては引いていく。
砂浜へ降りると靴の中へ砂が入り込み、裾が風に煽られる。
海は思っていたより近く、一歩、また一歩、足首まで水に浸かった。
思わず息が止まるほど冷たい。
膝まで水が上がり、衣服が水を吸い重くなる。
まるで、これまで背負ってきたものが一つずつ身体へまとわりついてくるようだった。
家の期待も貴族としての誇りも婚約者も、誰にも弱みを見せてはいけないという意地も、全部もういらない。
「……疲れましたわ」
小さな声が潮風にほどける。
シュラはさらに海へ進み、腰まで水に沈む。
冷たさが身体の芯へ入り込んできて、心地よかった。
何も考えなくていい、何も耐えなくていい、誰かの顔色をうかがう必要も、明日を迎える必要もない。
そう思うと、張り詰めていた肩から力が抜けた。
「死んだら……全部、終わるのでしょうか」
答えるように波が打ち寄せ、シュラは海の中へ身を沈めた。
水が耳を塞ぎ、世界から音が消えた。
肺が苦しくなっても、浮かび上がろうとは思わなかった。
陸へ戻ることのほうがずっと苦しい、このまま眠ってしまえばいい。
そうすれば、もう誰にも馬鹿にされない、捨てられることもない。
全てから解放されたい。
赤い髪が水の中で広がり、意識が遠のく。
シュラは目を閉じ、そのまま深い海の底へ沈んでいった。
◇
シュラが次に目を開けたとき、最初に感じたのは柔らかな布の感触だった。
背中には見慣れない寝台。
身体の下には羽毛のように軽い敷物があり、肩には厚手の毛布が掛けられている。
起き上がろうとした瞬間頭が重く揺れた。
シュラは額を押さえゆっくりと周囲を見回した。
そこは屋敷の客間とは似ても似つかない部屋だった。
壁は青みがかった石でできており、天井には小さな貝殻がいくつも埋め込まれ淡い光を放っていた。
丸い水晶に似た大きな窓の向こうを、魚の群れが横切った。
それだけでなく、家そのものが水中にあるようだった。
白い砂を固めて造られた床の上には見たことのない形をした骨。
壁際には細長い瓶が何本も並び、中には色とりどりの液体が入っていた。
古びた本の並んだ棚の隣には、巨大な目玉らしきものまで飾られている。
夢なのだろうか?
そうだ、自分は死んだのだからここは死後の世界なのかもしれない。
そのとき、背後から声がした。
「起きたのか。気分は?」
振り返ると、部屋の入口に女がいた。
まず目についたのは黒くて長い髪だった。
床へ広がるほど長い髪が、海藻のようにゆっくりと揺れている。
髪の隙間から覗く顔は、青白い肌に切れ長の瞳。
唇は淡い紫色で、耳の位置には魚のひれのようなものが覗いていた。
腰から下には艶のある鱗に覆われた大きな魚の尾。
女はゆっくりとシュラのそばまで近づいてきた。
「……あなたは、誰ですの」
長い黒髪を片手で払い、女は言った。
「ワタシはオクタヴィア。この辺りの海域じゃ有名な魔女だ」
シュラの視線が、棚の瓶へ移る。
毒々しい色の液体に奇妙な骨、瓶詰めにされた何か。
オクタヴィアはそれに気づいたのか、口元を緩め瓶を一本手に取った。
「気になるか?これは百三十七年生きた海竜の胆汁で、こっちは身体に鱗が生えてくる薬だ。あっちは――」
「待ってください……わたくしは、死んだのでは?ここはどこですか?」
シュラが遮った。
「ここが天国に見えるか?死んでいたら、今ここで話してねぇだろ。ここは海の底だ」
オクタヴィアは丸い水晶窓を指差した。
外を巨大な魚が悠然と泳いでいった。
もう何も残っていないのに、なぜ助かったのだろう。
オクタヴィアはそんなシュラをじっと見つめ、それから小さく息を吐いた。
「まあ、いい。まずは身体を休めろ。お前が元気になったら、少し相談してぇことがある」
そう言って魔女は丁寧に毛布を掛け直す。
シュラは毛布の中で目を伏せた。
最後に見えたのは、瓶の中で静かに揺れる色鮮やかな液体と、その向こうでこちらを見ている魔女の姿だった。
海底の家は波の音ひとつ立てず、静かに青い光に包まれていた。




