婚約破棄
翌日の午後、シュラは指定された応接室へ向かった。
扉の前で一度だけ息を整える。
「失礼いたします」
中へ入ると、クラウスが窓際で腕を組み立っていた。
こちらを見ようともしないクラウスの隣にはエリシアがいた。
淡い紫のドレスに大粒の宝石を身につけ、きのう馬糞を前にして笑っていた女とは思えないほど上品な姿だった。
「来たか」
シュラは向かいの椅子へ腰を下ろした。
「それで、お話とは何でしょう」
クラウスは一度だけエリシアを見て、視線に気づいたエリシアがほんの少し口元を上げる。
シュラの指が膝の上で固く組まれた。
「単刀直入に言おう、君との婚約を破棄する」
部屋の時計の音だけがかち、かち、と聞こえた。
「……理由を伺っても?」
「君と私は、もう将来を共にするべきではないと思った」
幼い頃から交わされてきた約束も、両家が何年もかけて築いてきた関係も、たった一言で切り捨てられる。
「では、これからあなたは、どうなさるおつもりですの?」
クラウスがエリシアを見る。
「エリシアと結婚する」
エリシアは嬉しそうに微笑んだ。
「わたくしも、クラウス様との結婚を望んでおります」
昨日の出来事が脳裏をよぎり、シュラは二人を交互に見た。
そして今、その女が自分の婚約者の隣に立っている。
「……そうですか」
呆れて反論もできなかった。
クラウスが眉をひそめる。
「何も言わないのか?」
「何を言えばよろしいのです?」
「君は僕との婚約を続けたいと思っているはずだ」
シュラはエリシアを睨みつけた。
エリシアが扇を閉じる。
「まあ怖い。まるでわたくしが何かしたみたいですこと」
「あなたには何も尋ねておりません」
「シュラ、エリシアにその態度はやめろ」
クラウスの声が低くなる。
昨日、わたくしが何をされたのかをクラウスは知らないのか、知ろうとしていないのか。
「クラウス様。わたくしは、あなたに相談したことがありましたね。エリシア様から嫌がらせを受けていると申し上げたことです」
「……彼女は気が強いだけだ」
「昨日、わたくしは馬糞を浴びせられました。その場には何人もいました。わたくしが助けを求めても、誰も動きませんでした。それでも、あなたはエリシア様を選ぶのですか」
エリシアの眉が跳ね上がり、クラウスは目を見開いた。
シュラは膝の上から手を離し、エリシアが口を開く。
「クラウス様。そんな話、信じる必要はありませんわ。彼女は昔から大げさなのです」
「……そうなのか?」
シュラではなくエリシアへ答えを求めているクラウスの顔を見た瞬間、何かが沈んだ。
「もう結構です。婚約破棄、お受けいたします」
クラウスの顔からわずかに驚きが消える。
「そうか」
謝罪も引き止める言葉もない。
シュラは立ち上がった。
「最後に一つだけ。わたくしは、あなたに捨てられたのではありません。わたくしが、あなたを選ばなかったのです」
クラウスが眉を寄せ、シュラは背筋を伸ばした。
エリシアが鼻で笑う。
「負け惜しみね」
シュラは扉へ向かい、取っ手に手をかける。
背後からクラウスの声がした。
「シュラ、これで僕たちは他人だ」
「ええ。そのほうが、わたくしには都合がよろしいですわ」
扉が開き、廊下の冷たい空気が頬を撫でた。
虚しかった。




