屈辱
翌日の午後、シュラはエリシアの屋敷を訪れた。
空は薄曇りで庭園の木々は湿った風に葉を揺らしている。
門をくぐると厩のほうから馬の嘶きが聞こえ、土と藁の匂いに混じって鼻を刺すような臭気が漂っている。
出迎えた使用人はシュラの顔を見るなり一瞬だけ目を伏せた。
「エリシア様がお待ちです。こちらへ」
案内されたのは応接室ではなく厩の裏手にある小さな空き地だった。
そこにはエリシアと昨日の令嬢たちが立っていた。
エリシアは淡い紫色のドレスをまとい泥ひとつない靴先を地面へ向けている。
その隣には銀の盆が置かれ白い布がかぶせられていた。
「いらっしゃい、シュラ様。わざわざ来てくださって嬉しいです」
「お呼びになったのは、あなたでしょう」
「まあ、相変わらず愛想がないこと」
エリシアは扇を開き口元を隠した。
「本日は、あなたに大切なことを教えて差し上げようと思ったの。貴族の令嬢には身分にふさわしい振る舞いが求められます。けれど、あなたはどうも勘違いしているようですもの」
エリシアが指を鳴らすと、控えていた使用人が銀の盆へ近づき白い布を取り払った。
そこにあったのはまだ温もりの残る馬糞だった。
濃い茶色の塊から湯気が立ち、すえた臭いが鼻腔へ入り込む。
シュラの喉が反射的に閉じ胃が縮み、令嬢たちが小さく笑う。
「……これは、何の冗談かしら」
シュラは盆から目を離さずに尋ねた。
「冗談ではありませんわ。あなたへの教育です」
エリシアは銀の匙を取り上げた。
先端に馬糞をすくいシュラの目の前へ差し出す。
「食べなさい、命令よ」
「お断りします。わたくしはあなたの家臣ではありません」
エリシアの笑顔がわずかに歪む。
「本当に、誇りばかり高いのね。あなたのような人間が、どれほど見苦しいか教えてあげましょう」
エリシアは匙をシュラの唇へ近づけた。
臭気がさらに強くなり目の奥が痛む。
シュラはえずき、一歩後ろへ退いたが背中が厩の壁に触れた。
「近寄らないで」
「嫌だと言うの?なら、押さえてちょうだい」
エリシアが命じると、背後にいた二人の令嬢がシュラの腕をつかんだ。
「放しなさい!」
振りほどこうと身をよじるが、相手はどちらも筋肉隆々であり、シュラは容易に組み伏せられた。
爪が肌へ食い込みドレスの袖が引きつれる。
「誰か! 誰か来て!」
シュラは厩のほうへ声を張り上げ、馬が驚いて蹄を鳴らす。
近くで作業をしていた使用人がこちらを振り返り目が合った。
けれど使用人はすぐに視線を地面へ落とし、何も聞かなかったように作業へ戻った。
「ほら、ご覧なさい! 誰もあなたを助けないわ」
エリシアの声が耳元へ落ち、匙が再び近づいてきた。
シュラは顔を背け唇を固く閉じ、エリシアは苛立ったように眉をひそめ空いた手でシュラの頬をつかんだ。
「口を開けなさい」
「触らないで!」
シュラが思いきり顔を振ると、匙が頬をかすめ馬糞がドレスの胸元へ落ちた。
茶色い汚れが白い布地へ広がって鼻をつく臭いがまとわりつき、令嬢たちの笑い声が弾けた。
「まあ、よくお似合いですこと」
「高貴な令嬢も、ずいぶんと素敵な装いになりましたわね」
シュラの耳の奥で何かが切れ、胸の奥から熱がせり上がる。
腕をつかむ指を振りほどこうと力を込めるが拘束は緩まず、爪が食い込む痛みさえ今は遠かった。
「……エリシア、あなたは……」
声が震え、エリシアは満足そうに目を細める。
「ようやく自分の立場がわかったのかしら?」
目の前の令嬢は、美しく整えられた髪も上品なドレスも、何もかも完璧だった。
その完璧さの下で、他人の尊厳を踏みにじることに愉悦を覚えている。
「あなたは、わたくしを人間だと思っていないのね」
一瞬、笑い声が止まり、エリシアの瞳から薄い愉快さが消える。
「大げさね。少し躾をしているだけでしょう」
シュラは汚れた胸元を見下ろした。
赤い髪が風に揺れ、泥と馬糞に汚れたドレスや押さえつけられた腕、それらをひとつずつ目に焼きつける。
「この仕打ちを、躾と呼ぶのですか」
「あなたが逆らうからでしょう!」
エリシアが声を荒らげ銀盆をシュラの顔面めがけて投げつけた。
湿った音が厩の壁に跳ね返り、シュラは嘔吐した。
エリシアは鼻で笑った。
「忘れられない一日にしてあげたのだから、感謝なさい」
「……覚えておきなさい。今日のことを、あなたも」
腕をつかんでいた手が離れた隙にシュラは二人の令嬢を押しのける。
足元がふらついたが転ぶことだけは避けた。
背筋を伸ばし汚れたドレスの裾を整え、誰にも頭を下げずに歩き出した。
背後からエリシアの笑い声が追ってくる。
屋敷の門を出たところで風が頬を撫で、シュラは足を止めた。
拳を握り、爪が掌へ食い込む。
「……わたくしは、屈しません」
呟きは風にさらわれ誰の耳にも届かない。
懐の中には昨夜届いたクラウスからの手紙。
そこにはこう記されていた。
『話があるので来てくれ。君には受け入れてもらうほかない』




