尊厳
「……ふんぬぬぬっ」
エリシアは鼻の穴を膨らませ、歯をむき出しにし、必死の形相で便意を堪えていた。
シュラはその様子を冷ややかに見つめていた。
*
シュラ・アリエーナイは誇り高い令嬢だった。
背筋はいつも伸びており、食事の席ではナイフとフォークを正しく扱い、社交の場では相手の身分に応じた礼を欠かさない。
赤い髪は丁寧に梳かされ、深い色合いの瞳には、容易に他人へ屈しない意志が宿っていた。
「シュラ様。こちらへいらしてくださる?」
廊下の向こうから甘くよく通る声がして、シュラは足を止めた。
声の主はエリシア・タイムアタック。
美貌、家柄、教養、そのどれを取っても社交界で名を馳せる華やかな令嬢である。
そしてシュラにとっては近頃、顔を見るだけで胃の奥が冷たくなる相手だった。
「何か御用かしら」
シュラが振り返るとエリシアは扇を開いた。
真珠の飾りが揺れ、唇には上品な笑みが浮かんでいる。
「まあ。ずいぶんと他人行儀なのですね。わたくし、あなたと親しくなりたいと思っているのに」
「それは光栄ですわ」
「口先だけの返事は結構です。庭園の東側にある小部屋へ来てちょうだい」
エリシアは返事を待たず踵を返し、シュラはその背中を見つめる。
断ればあとで何をされるかわからないが、従えばろくなことにならない。
シュラは顎をわずかに上げて歩き出した。
廊下の窓から差し込む午後の光が磨かれた床に細長く伸びている。
遠くでは使用人が食器を運ぶ音がしていたが、誰もこちらへ視線を合わせようとはしなかった。
小部屋の扉を開けるとエリシアのほかに二人の令嬢がいた。
「いらっしゃい、シュラ様」
「遅かったわね」
「申し訳ありません。別の用事がありましたので」
エリシアが扇の陰で笑い、シュラの髪を眺めた。
部屋の片隅の花瓶には淡い桃色の花が飾られ甘い香りが漂っている。
「まあ、謝ることができるのですね。相変わらず派手な髪色ですこと。赤い髪なんてまるで燃え残った薪のようですね」
「お気に召さないのでしたら、ご覧にならなければよろしいのでは?」
室内の空気が固まり、エリシアの笑みが薄くなる。
「……あなた、最近少し口が過ぎるのではなくて?」
「事実を申し上げただけですわ」
シュラは目を逸らさず、エリシアは手にしていた扇を閉じた。
「では、事実を教えてあげましょう。あなたは、誰からも必要とされていないのですよ」
胸の奥に冷たい指を差し込まれたような感覚が走ったが、シュラは表情を変えない。
「随分と大きなことをおっしゃいますのね」
「だってそうでしょう? クラウス様はあなたより、わたくしを選んでくださいます。あなたの家柄がどれほど立派でもあなた自身に価値がなければ意味がありません」
婚約者クラウスの名が出た瞬間シュラの指先がわずかにこわばった。
手紙は以前より明らかに減り、訪問の予定もいつの間にか取り消されている。
理由を尋ねても返事は短く素っ気なかったことをシュラは思い出しながら、声を平らに保った。
「わたくしの価値を、あなたに決めていただく必要はありません」
「まあ、まだそんなことを言えるのですね。ならば少し身の程を知っていただきましょうか」
エリシアは近くの卓へ歩み寄った。
置かれていた花瓶を手に取り、シュラの前へ差し出す。
「飲んでちょうだい、命令です」
「結構ですわ、わたくしはあなたの使用人ではありません」
エリシアは花瓶の中身を投げつけ、冷たい水がシュラの胸元へこぼれ落ちる。
絹の布地が一気に濡れ肌へ張りつき、床に水が滴り落ちた。
令嬢の一人が口元を押さえて笑った。
「まあエリシア様、お手元が滑ってしまったのですね」
「ええ、そういうこともあります」
エリシアは悪びれもせず空の花瓶を卓へ置き、シュラは濡れた衣服を見下ろした。
水滴が裾から落ち床に小さな染みを作っている。
怒りで頬が熱くなったが、声を荒らげれば相手の思うつぼだ。
シュラは唇を結び濡れた袖をそっと絞った。
「……これで、お気が済みましたか」
「そんなわけないじゃない?あなたのその顔が気に入らないの。何をされてもまだ自分が高貴な令嬢であるつもりなのですね。その誇りをいつまで守れるでしょうか」
エリシアが近づきシュラの顎へ指を添え、押し上げられた顔に扇の先が軽く触れる。
「あなたは、わたくしに逆らえる立場ではありません」
シュラはその手を振り払い、令嬢たちの笑い声が止まった。
「お触りになるなら、せめて許可をお取りになって」
エリシアの目から笑みが消えた。
「……本当に、あなたは可愛げがありませんね」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
シュラは濡れた床の上で背筋を伸ばした。
胸元には水の染みが広がっているが、頭を下げるつもりは毛頭ない。
エリシアはしばらく彼女を見つめたあと、ふいに扉のほうへ顔を向けた。
「誰か!シュラ様が花瓶を倒したの。片づけてちょうだい」
呼び声に、廊下の使用人が駆けてくる。
「……花瓶は倒れておりませんが」
使用人が戸惑いながら答えると、エリシアは冷たい視線を向けた。
「わたくしの言葉が間違っていると?」
「い、いえ。申し訳ございません」
使用人がすぐに頭を下げる光景をシュラは見つめていた。
「もういいわ。シュラ様、あなたは自分の部屋へ戻りなさい」
「承知しました」
「待って。明日の午後わたくしの屋敷へ来なさい。断ることは許しません」
扉へ向かいかけたシュラを、エリシアが呼び止めた。
「……理由を伺っても?」
「来ればわかるわ。きっと、忘れられない一日になるでしょうから」
エリシアは笑い、シュラはただ一礼し部屋を出る。
廊下へ出た途端張りつめていた呼吸が乱れた。
濡れた衣服が肌にまとわりついて冷たいはずなのに、体の内側は燃えるように熱かった。
角を曲がったところで侍女が一人こちらへ歩いてきた。
「シュラ様……お召し替えを」
「必要ありません」
「ですが、お風邪を召されては」
「必要ないと言ったでしょう」
声が鋭くなり、侍女は肩をすくめすぐに頭を下げる。
「申し訳ございません」
別に怒鳴りたいわけではないし、目の前の侍女に罪がないこともわかっているが、自分の弱さを誰かに見せることが今は耐えられなかった。
「……こちらこそ、ごめんなさい」
小さく呟いてシュラは歩き出した。
自室へ戻ると鏡の中にずぶ濡れの令嬢が映っていた。
赤い髪は乱れ、頬にはわずかに赤みが残っている。
髪を整えようと伸ばした指が震えた。
食事の席を外され、招待状を隠され、人前で笑いものにされ、抗議すれば気位が高いと責められる。
誰かに訴えようとしても相手はエリシアの名を聞いた途端に口を閉ざした。
クラウスに相談したこともあるが、そのときクラウスは困ったように笑って言った。
『エリシアは少し気が強いだけだ、君が大人になってくれればいい』
その言葉を思い出した瞬間シュラは鏡台の縁を握りしめ、爪が木に食い込む。
「……大人になれ、ですって」
誰もシュラに我慢をやめろとは言わなかったが、シュラ自身が我慢することを当然としていた。
シュラは濡れたドレスを脱ぎ侍女を呼ばずに自分で着替えた。
衣服を畳む手つきはいつもどおり正確だった。
「わたくしは、誰かの許しを得なければ生きていけない人間ではないわ」
声はかすかに揺れていた。
その夜、シュラの部屋の扉を控えめな音が叩いた。
「シュラ様。クラウス様からお手紙が届いております」
差し出された封筒には見慣れた紋章が押されている。
シュラが紙を開くと、短い文章が目に飛び込んできた。
シュラは読み終えた手紙を机の上へ置き、静かに椅子から立ち上がる。
窓の外では夜の風が木々を揺らしていた。




