祝福
シュラは革袋の口をきつく結んだ。
中で人格ゼリーがかすかに震えていることを確かめると、シュラは立ち上がった。
「さて」
大広間を見渡すと誰もが混乱していた。
花嫁は運び出され、料理人は青ざめ、客人たちは互いに顔を見合わせているその中心で、クラウスだけが動けずにいる。
「……シュラ」
掠れた声を出すクラウスをシュラは見る。
かつてわたくしを捨てエリシアを選んだ男は今、何もかもを失った花嫁を追いかけることさえできずにいる。
シュラはゆっくりと微笑んだ。
「クラウス様、お祝いを申し上げますわ。ご結婚、おめでとうございます。どうか、お二人で末永くお幸せに」
クラウスは目を見開き、静かな声で答えた。
「待ってくれ、シュラ。僕は……」
「何も説明なさらなくて結構です。あなたが選んだ方と、あなたが選んだ人生ですもの」
シュラは遮り、クラウスの唇が震える。
「だけど、エリシアは……」
「それも、お二人の人生です。では、ごきげんよう」
許すわけではなく、慰めるつもりもなく、ただ、もうわたくしの人生にクラウスの居場所を残す必要もない。
シュラが振り返ると舞台袖では、団員たちが息を潜めて待っていた。
グリヴが小さく手を振っている。
トーロは周囲を見回し、シュラの姿を確認すると、ほっとしたように肩を下ろした。
シュエットは片手で帽子を取り、アルエットは静かに客席へ目を向ける。
シュラは団員たちの前まで進み、深く頭を下げた。
「皆様。ありがとうございました」
「シュラ……?」
パンソンが目を丸くする。
「今日まで一緒に舞台を作ってくださって、本当に感謝していますわ」
ルージュゴルジュが驚いたように鼻をすすった。
「な、なんだ突然。改まって」
シュラは笑った。
「わたくし、皆さんと舞台に立てて幸せでした」
シュラは頷き、客席へ向き直った。
「皆様も。本日はわたくしたちの舞台をご覧くださり、ありがとうございました」
まだ騒然としている客人たちが、一斉にシュラを見る。
頭を下げるシュラの水色の髪が、淡い波のように肩から流れた。
「サーカスの演目はこれにて終了です。どうぞ、お気をつけてお帰りくださいませ。では、皆様。今度こそ、ごきげんよう」
誰もシュラを引き止められなかった。
今日、この場所で奪われたものはあまりにも多く、誰もがその余波の中に立ち尽くしていた。
「行きますわよ! とぅ!」
尾びれが大きく床を打ち、そのまま勢いをつけて跳ね上がる。
シュラの身体が宙を舞い、窓めがけて飛んで行く。
「そこか!」
使用人が叫び、シュラは窓枠を尾びれで蹴った。
ガシャンと音を立てて窓が大きく開き、風が一気に吹き込んだ。
次の瞬間、シュラの姿は窓の外へ消えていた。
「追え! 逃がすな!」
怒号が響き、シュラは屋敷の外壁に沿って設けられた堀へ飛び込んだ。
冷たい水が鱗を撫で、そのまま身体をひねり庭へ抜ける。
背後から足音が迫ってきた。
「いたぞ!」
シュラの前方に小さな噴水が見え、一度水底を蹴る。
水から水へ、ばしゃりと飛び移る。
噴水から用水路へ、用水路から池へ。
「こっちだ!」
追手が池の縁まで駆けてくるが、そこにはもうシュラはいない。
「どこへ行った!?」
「水場を探せ!」
別の声が飛び、シュラは池の中を泳ぎ、石組みの隙間から細い水路へ抜けた。
冷たい水が今のシュラには道標だった。
街中を流れる水、池、噴水、人工水路、さらにその先にあるのは街の外へ流れ出る小川。
「見つけた!」
追手が水路の出口を塞ごうとするがシュラは速度を落とさない。
「止まれ!」
手が伸びて指先が髪をかすめる。
水路の壁を尾びれで強く打ち、シュラは身体を横へ滑らせた。
手が空を切る。
シュラの身体が跳ね、追手の頭上を越える。
「なっ……! 速い!」
シュラは着水すると、そのまま川へ飛び込んだ。
どん、と水音が響く。
川は屋敷の水路よりずっと広く、流れも速い。
追手たちが岸へ走る。
「川だ!」
「下流へ回れ! 急げ!」
シュラは流れに身を任せながら、尾びれを大きく動かす。
右へ左へ岩を避け、浅瀬を抜ける。
追手が少しずつ遠ざかっていく。
やがて川幅がさらに広がり、水の匂いが変わる。
僅かに磯の香りがしてシュラは顔を上げると、遠くには広い海が広がっていた。
「……海ですね」
思わず声が漏れる。
汽水域の流れが海へ溶けていき、シュラはついにその境目を越えた。
背後を振り返ると、もう追ってくる者はいない。
シュラは深く潜り、水面の光が遠ざかる。
髪が海流にほどけていき、革袋を胸元へ抱え直す。
「……帰りましょう」
海はただ静かに、シュラを深い闇の中へ運んでいった。




