復讐
海の底へ潜るにつれて周囲の音が消えていった。
シュラのあまりの気迫からか、海ジョーズが寄ってくることもなかった。
波の砕ける音も海風の音も、もう聞こえない。
あるのは水が身体を包む感触と、尾びれが水を押し分ける音だけだった。
シュラは胸元の革袋を確かめると、袋の中で人格ゼリーが大きくもがいている。
「……苦しいのですか? 息ができないのかしら」
シュラは袋を少し持ち上げると、薄暗い海の中でも、人格が蠢いているのが分かる。
指のような突起が袋の内側から探るように動いていた。
その姿を見つめ、シュラは眉を寄せた。
これはかつて華やかなドレスをまとい、誰よりも美しく笑い、誰よりも高い場所から他人を見下ろしていた女、エリシアだった。
その人格が今は、袋の中で形を保てずに蠢いている。
シュラは袋の口をよりきつく結び直し、さらに深く潜った。
海流に押されるたび、革袋が胸元で揺れた。
「……静かにしてくださいな」
シュラが片手で押さえると袋の中から、ぐに、と押し返してきた。
「苦しいのでしょう? でも、わたくしも苦しかったのです」
水の中でシュラの低い声だけが響き、シュラは目を閉じる。
脳裏に浮かんだのは、昔の自分だった。
赤い髪を梳かし鏡の前で背筋を伸ばしていた少女、誰かに弱みを見せるまいと唇を結んでいた令嬢。
あの頃の自分なら、今の姿を見て何と言うだろう。
人魚になり、見知らぬ者たちと舞台に立ち、そして今、海の底へ向かっている。
シュラはふっと息を吐いた。
「……ずいぶん遠くまで来ましたわね」
しばらくすると、暗い海の中を魚の群れが横切った。
銀色の身体が一斉に向きを変え、シュラの周囲を避けていく。
その動きを目で追いながら、シュラはふと思った。
陸にいた頃は、どこへ行っても誰かの視線があった。
服装や髪型、家柄や婚約者。
何をしても、誰かの決めた物差しの中に置かれていた。
海は何も評価せず、ただそこにある。
シュラは尾びれを一度大きく振り、身体が前へ進む。
その単純な感覚が心地よかった。
海底には光さえ届かない場所があり、近づくにつれて水温が下がっていく。
岩肌は黒く、ところどころに貝やヒトデが張りついていた。
やがて、目の前に巨大な裂け目が現れた。
シュラは底が見えない海溝の縁で止まった。
尾びれを揺らしながら、暗闇を見下ろす。
「ここですわ」
革袋を両手で抱えると、袋の中でゼリーが激しく震えた。
「……嫌なのですか?」
「……しゅ…………」
シュラの指が止まる。
濁った水音だったが、シュラにはかつてのエリシアの声に聞こえた。
「……そう。最後まで、わたくしの名前を呼ぶのですね」
シュラは目を伏せ、海溝の底から冷たい水がゆっくりと上がってくる。
シュラは革袋を持ったまま、しばらく動かなかった。
ここへ来るまで、この瞬間が来れば、胸の奥に溜まり続けていたものが、すべて消えてなくなるのだとずっと思っていた。
あの日々も、屈辱も、婚約を捨てられた瞬間も、誰も手を差し伸べなかったことも。
けれど胸の奥に残っていたのは、予想していたほど鮮やかな喜びではなかった。
確かにある種の爽快感はある。
自分で決めたことを、自分の手で最後までやり遂げた。
もうエリシアに怯える必要も、彼女の顔色を窺う必要もない。
「わたくしの復讐は、これで終わりです」
シュラは静かに息を吐き、声が海中に溶けていく。
革袋を見つめると、袋の中ではなおも苦しそうに蠢いていた。
シュラは袋を胸から離し、海溝の上へ差し出す。
「さようなら、エリシア」
手を離すと革袋は静かに落ちていった。
やがて海水に引かれ、黒い裂け目の中へ吸い込まれていく。
シュラは目を逸らさなかった。
袋はどんどん小さくなり、やがて何も見えなくなった。
これでエリシアの魂は肉体が死ぬまで暗闇の中、たった一人で苦しみ閉ざされ続けるだろう。
シュラは海溝を見下ろしたまま動かなかった。
あまりにも静かで、耳の奥が痛くなるほどだった。
胸の中にあったものが、ひとつ抜け落ちたような感覚がする。
軽い、確かに軽くなったがそれは空っぽと同義であることはシュラ自身が一番よく分かっていた。
シュラが自分の胸元へ手を当てると、鼓動が伝わってくる。
とくん、とくん、と生きている。
「……わたくしは」
復讐は終わった。
シュラが海溝から視線を外し上を見れば、遠くに明かりが滲んでいる。
水面は遥か彼方だ。
海へ身を投げたときシュラはただ、すべてから消えたかった。
けれどシュラはまだここにいる、しぶとく執念深くのうのうと生きている。
「……生きていますのね」
小さく呟いたその声は、思ったより穏やかだった。
シュラは尾びれを動かした。
海流が髪をさらい、長く後ろへ流していく。
もう一度だけ海溝を見て、シュラはゆっくりと背を向けた。
深い闇の中、頭上に遠く小さな光が見えていた。




