抜け殻
「エリシア様が!」
「誰か、医師を呼べ!」
騒然とした会場の中心で、エリシアだけが動かなかった。
少し前まで、誰もが羨む花嫁だった女が、まるで時間に取り残されたように突っ立っている。
「……エリシア? エリシア、聞こえているのか?」
クラウスが恐る恐る呼びかけたが返事はない。
肩へ手を伸ばし触れても、エリシアは瞬きすらせず、ただ正面をぼんやりと見つめている。
目の焦点が合わない。
「エリシア様……? お色直しを……お部屋へ……エリシア様!」
侍女も震える声で呼ぶがエリシアは動かない。
やがて別の使用人が駆け寄ってきた。
「医師を呼びます!」
「急げ! 医者が来るまで部屋で休んでいただこう! エリシア様をお運びするぞ。誰か手を貸せ!」
年長の使用人が指示を飛ばし、数人の使用人がエリシアを取り囲んだ。
白いドレスの裾を持ち上げ身体を支える。
「失礼いたします、エリシア様」
肩を抱かれ、腕を取られ、それでもエリシアは抵抗しなかった。
自分で歩こうともせず、まるで糸を切られた人形だった。
「……軽い」
使用人の一人が思わず呟き、その言葉に隣の男が顔をしかめた。
「余計なことを言うな」
「す、すみません」
四人がかりでエリシアの身体をゆっくりと運び始める。
ドレスの裾が床を引きずり、真珠が小さく揺れる。
「道を空けてください!」
「こちらです!」
使用人たちが人垣を押し分け、クラウスはその後を追おうとした。
「エリシア!」
エリシアは振り返らない。
正確には振り返ることすらできない。
やがて白いドレスの裾が扉の向こうへ消え、エリシアが立っていた床には異様なものが残されていた。
「……あれは」
客人の一人が呟く。
半透明の塊が床の上でゆっくりと蠢いており、時折ぷるりと震える。
「人の……顔に見えませんか?」
「やめてくれ」
「いったい、何なんだ……」
誰も近づこうとはしなかった。
「……エ、リ……」
そのときかすかな声がし、誰もが凍りつく。
「今、喋った?」
床の塊が、ぬるりと動いた。
言葉のその先が続かず、まるで言語機能そのものをどこかへ落としてきたかのようだった。
シュラは舞台の上から様子を見つめていた。
客人たちは騒ぎ、使用人たちは右往左往している。
クラウスは消えていったエリシアを見つめたまま立ち尽くしている。
その一方で別の場所でも異変が起きていた。
「……あれ?」
廊下から先ほどの毒味役が戻ってきた。
壁に手をつきながら、ふらふらと歩いている。
「どうしたんだ、お前。さっきから顔色が悪いぞ」
同僚の給仕が駆け寄った。
「……俺は……俺は、何をしていた?」
毒味役は眉間を押さえた。
「何って……決まってる、結婚式の裏方だろ」
「そうだったか? なんだか……大事なことを忘れている気がする」
毒味役はしばらく考え込んだ。
「寝不足じゃないのか?」
「いや……違う。思い出せない……そもそも、俺は今なんでここにいる? 朝起きて、顔洗って、それで……?」
毒味役は真剣な顔で言い、同僚が目を丸くする。
首を傾げる毒味役の顔には、素直な困惑が浮かんでいる。
「エリシア様の料理の毒味をしたんじゃないのか!?」
「エリシア……知らない」
名前を聞いた途端、毒味役は頭を押さえた。
「いやいやいや!」
同僚が思わず声を上げたが、毒味役本人に悪びれる様子はない。
ただ、記憶の一部分だけをどこかへ置き忘れてきたような顔をしていた。
その光景を見ていた客人の一人が呟く。
「まさか……料理に何かあったのか?」
「やめろ。これ以上、考えたくない」
別の客が制し、大広間は再びざわめき始めた。
誰かが便所へ走り、それを見た別の誰かがつられて逃げる。
憤慨して帰ろうとする者、使用人へ説明を求める者。
司祭は呆然と立ち尽くし、楽団員たちは楽器を抱えたまま互いの顔を見合わせている。
結婚式だったはずの場所は、もう祝宴の面影を残していなかった。
すべてを見届けたシュラは水槽から大きく跳ねた。
人格の近くに着地し、尾が床を擦って、しゃらりと鱗が鳴った。
誰もシュラを止めず、ゼリー状の塊が彼女を見上げた。
シュラはしゃがみ込み、いつの間にか手袋をつけていた手を伸ばした。
「迎えに来ましたわ」
シュラは喧騒の中で床から人格を拾い上げ、革製の小さな袋に詰めた。
大広間には、まだ悲鳴が響いている。
今日という日を祝福の日にすると決めた者たちは、もうどこにもいない。




