排泄
エリシアは落ち着かない様子だった。
先ほどから、腹の奥に妙な違和感がある。
何かが腹の底でゆっくりと動いているような重たい感覚だった。
「……おかしいわ」
エリシアは小さく呟き、隣に立つクラウスが振り向く。
「どうした?」
「なんでもありませんわ」
反射的に答えた。
こんな大勢の前で体調が悪いなどと言えるはずがない。
しかも今日は自分の結婚式なのだ。
シュラの突然の登場で、すでに会場は大騒ぎになっている。
死んだと思っていた元婚約者が人魚になって現れただけでも十分に不愉快だったのに、これ以上、自分の醜態を晒したくはなかった。
エリシアは扇を開いた。
「少し疲れただけですわ」
「顔色が悪くないか?」
「気のせいです」
ぴしゃりと言い切り、クラウスは口を閉じた。
その瞬間、ぐるるるる……とエリシアの腹が鳴った。
「う……!」
扇の陰で顔が引きつる。
周囲では客人たちがざわめき誰もこちらを気にしていない。
それでもエリシアは、耳まで熱くなった。
なんなの、どうして。
朝から何もおかしなものは食べておらず、むしろ今日は花嫁なのだからと料理にも気を遣わせていた。
料理人には何度も念を押し、自分の皿だけは特別に用意させ、毒味役だっている。
体調を崩す理由などない。
「……エリシア?」
「大丈夫ですわ」
また同じ答えを返したが、今度は声が少しだけ上ずっていた。
舞台の上ではシュラが静かにエリシアを見ている。
水色の髪が肩から流れ、尾が水槽の中でゆるやかに揺れていた。
その顔には先ほどまでの歌姫らしい微笑みがなく、ただじっとこちらを見ている。
「……何よ」
エリシアは小さく睨んだ。
シュラが答えないことが余計に腹立たしかった。
そして今度は先程よりはっきり、ぐうううう……と腹が鳴った。
「くっ……!」
エリシアは咄嗟に腹を押さえ、クラウスが目を見開く。
「本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だと言っているでしょう!」
声が広間に響き、一瞬、近くの客人たちが振り返る。
エリシアは扇を口元へ戻した。
「……失礼いたしました。少し緊張しているだけですわ」
取り繕うように微笑む。
「そうか……」
納得しきれない様子のクラウスを横目にエリシアは目を伏せる。
腹の奥がさっきよりも強く、また動いた。
違和感というより、もはや明確な便意だった。
「うーん……」
背筋が固まる。
まずい、まずすぎる。
エリシアは足を揃えた。
花嫁衣装の裾が床へ広がっており、この格好ではすぐに動くことも難しい。
それでも今ならまだ間に合う。
「クラウス様。わたくし、少し……」
「なんだ?」
言葉を選ぶ。
お花摘みに行きたい、そんなことをここで口にできるわけがない。
「少し、お色直しをしてまいりますわ。このままでは皆様の前に長く立っているのも疲れますもの。少し休んで、別の衣装に着替えてまいります」
エリシアは笑い、クラウスは周囲を見た。
確かに花嫁が一度席を外すこと自体は珍しくない。
「わかった」
「では」
エリシアは侍女を伴い歩き出した。
一歩、二歩、歩くたびに腹の奥がぐっと締まる。
「……ぐっ」
足が止まりそうになるが、止まってはいけない。
笑顔を崩すな、わたくしは王国一美しい花嫁なのだから。
エリシアは背筋を伸ばしたまま出口へ向かい、白いドレスの裾が床を擦り、真珠が揺れる。
周囲からはまだ小声が聞こえていた。
「まさか、本当にシュラ様なのですか?」
「死んだと聞いていたのに……」
「それより、あの人魚美人ですよね……美人? 美魚?」
誰もエリシアを見ていないことが幸いだった。
あと少し、扉まで行けばいい。
そのとき腹の奥が大きく、ぐるっと波打った。
「……ぬぅ!」
エリシアは口を閉ざし足を止める。
額に汗が浮かんだ。
身体が明確に、外へ出せと訴えている。
「少し……少し、急いで」
近くにいた侍女が駆け寄る。
「はい、エリシア様。お色直しでございますね?」
「ええ……!」
エリシアは必死に頷き、侍女がドレスの裾を持ち上げる。
歩きやすくなった、これなら行ける、まだ間に合う、まだ助かる。
そう思った瞬間、腹の奥からさらに強い波が押し寄せた。
「ゔぅ……!」
エリシアの膝が震える。
「エリシア様?」
「なんでも……ありませんわ」
声が掠れ、扇を握る手に力が入る。
爪が掌へ食い込む。
駄目、ここで崩れてはいけない。
わたくしは花嫁、今日は自分が主役なのだ。
エリシアは顔を上げ、その視線が舞台のシュラとぶつかった。
シュラなどに、この場を奪われてたまるものか。
ただ静かに見ているシュラの目が、まるで全てを知っているように見えた。
「……あなた……まさか」
エリシアの唇が震え、シュラは微笑んだ。
エリシアの顔から血の気が引いた。
「まさか、あなた……」
言葉が続かない。
シュラはまるで舞台の上で何かを待っているように、客席へ向けて一礼した。
「エリシア様! どうなさいました?」
侍女の声が響いた。
「……なんでもありません! 早く!」
エリシアは声を荒らげ、侍女が慌てて裾を持つ。
エリシアは再び出口へ向かったが、歩幅を大きくするほど腹への刺激が増す。
一歩、二歩、三歩、そろそろ限界が近づいてくる。
「……ふんぬぬぬっ」
エリシアは歯を食いしばった。
冷たい汗が背中を伝い、呼吸が浅くなる。
目の前の扉が遠い。
たった数十歩なのに、まるで堀で囲まれた城壁の向こうにあるようだった。
「もう少しです、エリシア様」
「わかっています……!」
その声には余裕がなく、会場の客人たちも異変に気づき始める。
「花嫁様、どうされたのかしら」
「顔色が真っ青だ、体調が悪いのでは?」
ざわざわと声が広がり、エリシアは唇を噛んだ。
こんなもの、こんな、くだらない身体の要求に負けるわけにはいかない。
わたくしはエリシア・タイムアタック。
誰もが羨む美貌を持ち、家柄も教養も申し分ない。
そして今日、誰もがわたくしを祝福するはずだ。
これまで二度も結婚に失敗した上、妹にも先を越されたのだ、今日、今度こそ幸せを手にする。
誰よりも幸せになってやる。
「……わたくしは……こんなところで……」
エリシアが呟いたその瞬間。
腹の奥が、これまでとは比べものにならないほど強く締めつけられた。
「――ほお゛っっ!」
エリシアの身体が大きく震え、足が止まる。
一瞬呼吸が止まって扇が手から滑り落ち、ぱさりと床へ落ちた。
「エリシア様! お立ちになれますか?」
侍女が駆け寄る。
「……待って、少し……待って……」
エリシアは動けなかった。
動けば、終わる。
そう確信していた。
額から汗が滴り落ち、頬は青ざめ、唇は震えている。
「……まだ。まだ、よ……」
歯を食いしばるエリシアの姿を、会場中が見ていた。
先ほどまで華やかな花嫁を讃えていた客人たちが今では息を潜めている。
さすがにクラウスも立ち上がった。
「エリシア!」
「来ないで!」
鋭い声が飛び、クラウスが足を止める。
「ち、近づかないで……! 見ちゃダメ……!」
その声には、これまでクラウスが聞いたことのない切迫感があった。
エリシアは必死に耐えていたが、身体は彼女の意志など聞いてくれない。
「……い、や。嫌……」
小さな声が漏れ、エリシアはドレスを握りしめる。
「まだよ……まだ、わたくしは……」
もう一度、駄目押しの強い波が押し寄せた。
「――いやああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっ!!!」
悲鳴が広間に響き渡り、誰もが凍りついた。
次の瞬間、バッビチチチチチチャブリリュと、エリシアの身体から無様な音をたてながら何かが押し出された。
白いドレスの長い裾に隠れて見えないが、床へ落ちたそれは通常の排泄物とは明らかに違っていた。
半透明でヌメヌメする小さな塊だったものが床の上でぶるりと震えた。
人の顔を思わせる輪郭に指のように伸びる突起、そして口らしき裂け目。
それが床の上で蠢いているエリシアの人格。
彼女自身の中にあったものが肉体から切り離され、異様な姿となって排泄されたのだ。
「……な、何……?」
誰かが呟く。
あたりに立ち込める匂いに招待客たちは困惑し、楽団員たちは楽器を抱えたまま立ち尽くし、給仕たちは我先にと後ずさった。
「お、おい! 誰か止めろ!」
「多分もう出きっただろう、何を止めるんだ!」
「知りませんわよ! 臭゛い゛!」
大広間は一瞬にして混乱へ変わり、クラウスは怯えてその場から動けずにいた。
「エリシア……?」
花嫁は答えず、ただ虚ろな目で前を見ている。
先ほどまで人々を見下ろしていた瞳から、何かが抜け落ちていた。
「……まだ復讐は始まったばかりですことよ」
シュラはエリシアを見た。
その瞳には怒りも歓喜もなかったが、長い時間をかけてここまで辿り着いた者だけが持つ決意が確かに宿っていた。




