正体
シュラは歌い続け、透き通った声が大広間の隅々まで届き、楽団の伴奏さえも包み込んでいく。
花嫁のために用意された花々が、開け放たれた窓から入り込む風に揺れていた。
誰もが歌姫を見ており、シュラは最後の音を細く伸ばし歌を終えた。
一瞬、広間から音が消え、次の瞬間、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「素晴らしい!」
「なんて美しい歌声なんだ!」
「人魚の歌というのは、本当にあんなにも澄んでいるのか!」
立ち上がる者までおり、シュラは微笑んだままゆっくりと客席へ向かって頭を下げた。
さらに大きくなる拍手の中心で、エリシアだけは扇を口元へ当てたまま、どこか退屈そうにしていた。
「ずいぶん評判のようですわね」
「そうだな、歌も見事だ。あれほどの人魚がいるとは知らなかった」
クラウスも拍手をしながら答える。
「人魚なんて、珍しいだけでしょう」
肩をすくめたエリシアの横顔を、シュラは舞台の上から見つめ、ゆっくりと前へ進んだ。
「皆様。本日は、このような素晴らしい席にお招きいただき、ありがとうございます」
よく通る声が広間に響き、客人たちは笑顔で頷いた。
「こちらこそ素敵な歌をありがとう!」
「もう一曲お願いしたいくらいだ!」
そんな声が飛び、シュラは微笑んだ。
「ありがとうございます。ですが、その前に自己紹介をさせてください」
花嫁へ視線を向け、シュラは胸元へ手を添える。
クラウスが眉を寄せた。
「……なんだ?」
シュラは頭へ手を伸ばし、水色の長い髪を束ねていた飾りを外す。
さらり、と髪が肩へ落ち、シュラの表情から歌姫としての柔らかな微笑みが消えた。
背筋が伸び、顎がわずかに上がる。
その姿には、かつて名門貴族の令嬢として人々の前に立っていた頃の面影があった。
「わたくしはシュラ・アリエーナイと申します」
クラウスの顔から血の気が引いた。
「……え? アリエーナイって……」
誰かが呟き、ざわ……ざわ……と波紋のように声が広がる。
「まさか……死んだと聞いていたぞ」
「クラウス様の元婚約者……?」
クラウスが一歩、後ろへ下がった。
「シュラ……?」
その声に、シュラは視線だけを向ける。
「お久しぶりです、クラウス様。そしてエリシア様」
シュラの冷ややかな視線が、エリシアへ移り扇が止まった。
エリシアの唇がわずかに開く。
「……あなた。そんな……」
「覚えていらしたのですね」
エリシアが立ち上がり、白いドレスの裾が床を擦った。
「あなたは死んだはずでしょう?」
「姿は変わりましたが、わたくしは生きています」
その言葉に客人たちが息を呑み、シュラは自分の尾へ視線を落とした。
銀色の鱗が窓から差し込む光を弾いている。
シュラ再び顔を上げ、クラウスが震える声で言った。
「どうして……生きて……」
「その質問をするのですか? あなたは、わたくしがどうなったのかなど、気にも留めなかったでしょう」
シュラの声が低くなる。
「それは……」
「今さら弁解なさらなくて結構です。今日は、お二人の大切な日ですもの」
その言葉にエリシアの眉が吊り上がり、クラウスが口を閉じた。
「ならば、なぜここへ来たのですか!」
「決まっているじゃありませんか、あなたがたを祝福するためです。忘れられない一日にして差し上げます」
シュラは淡々と答え、ざわめきが再び広がる。
誰かが息を呑み、誰かが隣の客へ小声で何かを囁いたそのときだった。
大広間の端に立っていた一人の男が腹を押さえた。
男はこの日の料理を担当する毒味役だった。
「どうした?」
隣の給仕が声をかける。
「いや……なんでも……少し席を外す」
男は首を振り会場を後にする。
額には細かな汗が浮かんでおり、腹の底から、ぐるりと何かが動いたような感覚がした。
「……なんだ、これは」
男は便所へ続く廊下の壁に手をついた。
誰も、その異変に気づいていない。
人々の視線はすべてシュラと花嫁へ注がれていた。
シュラはエリシアを見つめ、エリシアは震える手で扇を握りしめ呟いた。
「ありえない……」
「エリシア様。本日は、最後まで楽しんでいってくださいませ」
シュラの唇に笑みが浮かんだ。




