仕込み
グリヴは盆を抱えたまま厨房へ続く廊下を歩き、磨き上げられた床に靴音が小さく響く。
廊下の両側では結婚式の準備に追われた使用人たちが忙しなく行き交っていた。
花瓶を抱えた者、銀器を運ぶ者、料理の皿を載せた台車を押す者、誰もが急いでいる。
グリヴはその流れに逆らわず少しだけ肩を落として歩いた。
胸元に隠した小瓶が衣服越しに肋骨へ触れる。
「ちょっとあなた、見ない顔ね」
背後から声が飛んできて、グリヴの足が止まる。
振り返ると、腕に布巾を抱えた白髪交じりの女がこちらを見ていた。
「……はい」
「どこの持ち場?」
一瞬、喉が詰まった。
使用人として自然に振る舞うための言葉はあらかじめ考えていたが、いざこうして真正面から問われると頭の中が真っ白になった。
「本日だけ、厨房のお手伝いに……」
「誰の指示?」
「ええと……」
女の眉が寄り、グリヴは盆を持つ手に力を込めた。
まずい、ここで疑われれば薬どころか屋敷から追い出される。
そのとき、廊下の向こうから別の使用人が駆けてきた。
「デザートの準備、まだですか!」
「今やってるよ!」
女が振り返るその一瞬をグリヴは逃さなかった。
「こちらを運ぶように言われましたので、先に厨房へ参ります」
「待ちなさい!」
呼び止める声を背中に受けながらグリヴは歩みを速め、角を曲がる。
厨房の扉が見えた。
グリヴはようやく息を吐いたが、安心するには早かった。
厨房の中は戦場だった。
大きな鍋から湯気が立ち上り、肉の焼ける香ばしい匂いが漂っている。
香草を刻む音、食器の触れ合う音、料理人たちの怒鳴り声が重なり、熱気が頬を撫でていく。
「そこ、皿を持っていって! あとソースが足りない!」
「はい! 今持ってきます!」
グリヴは盆を空いた台へ置き、視線を巡らせる。
エリシアの食事がどこにあるのか。
料理はすでに完成に近づいており、いくつもの皿が並べられ、その中には他と違う料理もあった。
しかし、どれがエリシアのものか分からず、グリヴの額に汗が浮かぶ。
厨房の中央では料理長らしき男が指示を飛ばしていた。
「エリシア様の料理は別にしておけ! キノコと魚は嫌いだから絶対に入れるなとお達しがあった! 盛り付けが済んだら、侍女に直接渡すんだ!」
それなら花嫁の料理が分かる。
グリヴは耳を澄ませたが、料理長のすぐそばには二人の料理人が立っている。
近づけば目立つ、どうする。
グリヴが考えていると、一人の料理人がこちらを振り返った。
「そこのお前! そっちの皿、銀の台へ並べてくれ!」
「はい! 承知しました!」
これなら近づける、グリヴはすぐに皿を受け取った。
皿を運びながら花嫁用の料理が置かれた台の前を通る。
白磁の皿を彩るソースは果物を使っているのだろうか、深い赤色で見た目にも華やかだった。
香草を添えた肉料理の横に小さなデザート。
これだ、グリヴは一度だけ横目で確認した。
胸元へ手を伸ばしたくなるが、ここで薬瓶を出せば見つかる。
グリヴが何食わぬ顔で皿を置いたその瞬間だった。
「あなた! やっぱり見たことがない。どこから来たの?」
鋭い声が響き、グリヴの肩が跳ねる。
さきほどの女が厨房へ入ってきて、厨房の何人かがこちらを見る。
グリヴは冷や汗をかいた。
「わ、私は……」
「名前は?」
「グリヴ」
咄嗟に答えてから、しまったと思った。
女の目が細くなる。
「グリヴ?」
「……し、失礼しました。今のはくしゃみです。グリヴ。グリヴ! グ゛リ゛ヴ゛!!」
完全に苦しい。
女が一歩近づいてきて、グリヴは逃げ道を探した。
厨房の入口、料理台、花嫁用の料理、そこに置かれた大きな水差し。
これだ。
次の瞬間、グリヴはわざと足をもつれさせた。
「あっ! 危ない!」
盆が傾き、女が反射的に手を伸ばした。
グリヴは水差しを掴み身体をひねり、水が床へこぼれる。
「申し訳ありません! すぐ拭きます!」
「何してるの!」
グリヴは素早く布巾を拾い、厨房中の視線が水のこぼれた床へ移る。
その僅かな瞬間、グリヴの手が胸元へ滑り込んだ。
小瓶の栓を外し、液体を花嫁用の肉料理へ落とす。
ぽたり、と香草の影へ消えた。
グリヴは瓶を戻し、何事もなかったように床を拭いた。
「もういいわ。早く片づけて」
「はい!」
女が離れていき、グリヴは顔を伏せたまま布巾を動かした。
成功した、そう思った直後だった。
「待て。この皿、誰が触った?」
料理長の声がして、グリヴの手が止まる。
料理長は花嫁用の皿を見ており、厨房の空気が変わった。
「私が運びました」
「……そうか」
グリヴが答えると、料理長が皿を持ち上げる。
グリヴは息を殺した。
「ソースの量が多いな。盛り付け担当、誰だ?」
「私です!」
若い料理人が慌てて手を挙げる。
「次から気をつけろ。エリシア様の料理だぞ、侍女が来る前に仕上げろ」
「申し訳ありません!」
料理長は皿を戻し、グリヴは俯いたまま布巾を握りしめた。
胸の奥で心臓が跳ねている。
あと少しで、この皿はエリシアの前へ運ばれる。
グリヴは空になった水差しを持ち上げた。
「これ、片づけてきます」
「そこに置いとけ!」
「はい!」
返事をして厨房を出て、扉が閉まった。
グリヴは壁に背を預け長く息を吐く。
手が震えているが、口元には小さな笑みが浮かんだ。
廊下の向こうから使用人たちの足音が近づいてくる。
「エリシア様のお食事を運びます!」
グリヴが顔を上げると銀の台に載せられた料理が、目の前を通り過ぎていく。
その中にさきほどの皿があり、グリヴはそれを見送った。
やがて皿は廊下の奥へ消えていく。
グリヴが胸元に触れるとそこには、空になった小瓶があった。
グリヴはゆっくりと顔を上げた。




