侵入
「そこのあなた、これを厨房へ」
「はい」
グリヴは即座に返事をし、盆を受け取り俯いて歩き出す。
グリヴは普段の銀色の衣装ではなく、灰色の地味なワンピースを着ていた。
化粧を落とし、髪をまとめ、白いフリルエプロンを身にまとい、片脚の義足も長いスカートの下に隠している。
どこから見ても、目立たないメイドだった。
*
王都の空は、薄い雲を残して晴れていた。
その頃、サーカスの一行は、式場となるタイムアタック家の大邸宅から少し離れた場所にいた。
シュラは人目につかない路地で髪を整えていた。
人魚の尾は布で覆い、上半身には舞台衣装を着ている。
手鏡を覗き込み、シュラは口元を上げた。
「グリヴ様、準備はできていますか?」
シュラが小さく呼ぶと、少し離れたところでグリヴが振り返った。
「もちろん。この格好なら、あの屋敷に入っても怪しまれないと思う」
「ええ。あなたには、予定通り屋敷の中へ入ってもらいます」
シュラは頷き、グリヴの目が細くなる。
「……分かった」
以前の一件でグリヴはシュラに対して負い目があった。
そのため、シュラからこの役目を頼まれた際、それを引き受けたのだった。
「薬は絶対に見つからないようにしてください」
「任せて」
グリヴが胸元を軽く叩き笑った。
その笑顔からいつもの舞台上の華やかさは消え、代わりにあったのは仕事を任された人間の鋭い顔だった。
屋敷へ向かう途中、シュラは人の流れを観察していた。
招待客の馬車が門前に止まるたび、門番が確認に出る。
使用人が走ってくると扉が開き、閉じる。
そのたびに、ほんの数秒だけ人の意識が分散するが、シュラ自身が目立っていれば、その数秒をもっと長くできる。
「まあ、あれが今日の人魚なのね」
そんな声が聞こえ、シュラは振り向きにこりと笑った。
「今日はとても楽しみでした。早くエリシア様の晴れ姿を見たいですね」
シュラは一人ひとりに丁寧に微笑み返す。
その一方で、グリヴは人の波から静かに離れていった。
灰色の服に伏せた顔、義足であることを感じさせない目立たない歩き方、誰かがグリヴを見てもすぐに忘れるだろう。
グリヴは胸元に手を添えると、薬瓶がそこにある。
シュラが人目を引いている隙にグリヴは屋敷の奥へ消えていった。
やがて、屋敷の前に今日の余興を担当するサーカスの馬車が到着し、門番が近づいてくる。
「本日の余興の一行だな?」
「はい!」
ルージュゴルジュが大げさに頭を下げ、シュラも一歩前へ出た。
その瞬間、門番の視線が彼女へ吸い寄せられた。
「……人魚?」
「ええ、本日の歌を担当いたします」
シュラは微笑み、わざとゆっくり優雅に尾を動かした。
鱗が朝の光を受けてきらめき、門番だけではなく近くを通った使用人まで振り返る。
馬車の中から客人が顔を覗かせ、屋敷の二階にいた侍女まで窓からこちらを見た。
「すごい……」
「本物の人魚?」
「今日の余興なのかしら」
シュラは重なる声を聞きながら笑顔を崩さなかった。
*
屋敷の中へ入ったところで、グリヴは一度だけ振り返った。
遠くにはまだシュラがいる。
人の視線を一身に集めながら、シュラは何事もないように微笑んでいた。
グリヴは小さく息を吐き、厨房へ向かった。
シュラはグリヴの背中が扉の向こうへ消えたことを確認すると、客人たちへ向けてさらに一歩前へ出た。
「わたくしも祝宴を盛り上げるべく全力を尽くします。皆さま、本日はよろしくお願いいたします」
声を張ると、また視線が集まった。
笑い声、囁き、靴音で屋敷の前が少しずつ騒がしくなる。
もうすぐ始まる。
今日こそわたくしの尊厳を踏みにじった二人に、その代償を支払わせる。




