消えた薬
稽古場には、昨夜までの熱気がまだ残っていた。
床には細かな木屑が散り、壁際には使い込まれた道具が並んでいる。
窓を開けても港から潮の匂いが流れ込むだけで、湿った空気はなかなか抜けず、シュラは水槽の中で譜面を確認していた。
「ここから、もう少し早く入りますわ」
「了解!」
アルエットが綱の上から返事をする。
グリヴは空中ブランコの金具を締め、トーロは鉄球を磨いていた。
パンソンは床に座って靴紐を結び直し、シュエットは片腕で道具箱を運んでいる。
昨日までと変わらない光景だからこそ、最初の違和感は小さかった。
シュラが胸元へ手を伸ばしたとき、その指先が空を掴んだ。
小瓶は衣装の内側、誰にも見せない小さなポケットにあるはずだった。
シュラはもう一度探ったが、指先が布の奥を滑る。
やはり、ない。
「シュラ? どうしたの?」
アルエットが声をかけた。
シュラは水槽の縁へ手を置き、身体を起こす。
「団長を呼んでくださいませ」
低い声だった。
呼び出されたルージュゴルジュは、倉庫の奥にいた。
「どうした?」
「わたくしの薬がありませんの」
団長の顔から笑みが消えた。
「……どこに置いていた?」
「わたくしの衣装箱の、二重底です」
シュラは衣装箱を運んできた。
古びた木箱の表には舞台衣装が何着も入っている。
裏返した底板の下には薄い布を敷いた小さな空間があり、そこに小瓶を隠していた。
「昨日の稽古が終わった後、ここへ戻しましたわ」
シュラが底板を外すと何もなかった。
布には、瓶を置いていた丸い跡だけが残っている。
「箱そのものに鍵はありません。ただし、二重底はわたくし以外には見つけにくい構造です」
シュラは布を指でなぞった。
灰色の液体がこぼれた跡も、瓶が割れた形跡もない。
蓋だけが残っているわけでもなく、ただ瓶だけが消えている。
「誰かが持ち出したのかもしれません」
パンソンが靴紐を結ぶ手を止め、トーロは磨いていた鉄球を床へ置いた。
グリヴは空中ブランコから降り、シュエットも道具箱を脇へ置いた。
「盗まれたってこと?」
アルエットの声が小さくなる。
「まだ断定はできませんが、少なくとも自然に消えたとは考えられません」
シュラは答え、団長が腕を組む。
「最後に見たのは?」
「昨日の夜です」
シュラは記憶を辿った。
稽古が終わったあと、団員たちは皆それぞれの道具を片づけていた。
シュラは一人で衣装箱を開け、薬を確認した。
その時には確かにあった。
「最後に見たのは、わたくしですわ。その後、倉庫の奥に置きました」
団長がそこへ歩いていくと、衣装箱が置かれていた場所には薄く埃が積もっており、シュラは目を細めた。
「……おかしいですわ。昨日、ここにはもっと道具が置かれていました」
周囲を見ると、縄、木箱、古い幕など、いくつかの道具が移動している。
「稽古の後、片づけたからな。みんなでだ。薬の存在を知っている者は?」
団長が尋ね、シュラは少し迷った。
「……わたくしと、団長だけですわ。薬について詳しく話したことはありません」
団長が周囲を見ると、団員たちは互いの顔を見ていた。
「じゃあ、誰が?」
パンソンが呟くが、誰も答えなかった。
シュラは衣装箱の中を一着ずつ調べた。
布地、装飾品、小道具、箱の蓋にも何も異常はなかった。
「鍵がないなら、誰でも触れられたんじゃない? それにどこかに落っことした可能性もある。団員の誰かが持っていったって決めつけるのは早いよ」
グリヴが言う。
「そうなりますわね」
シュラが頷いたそのとき、シュエットが倉庫の入口を指した。
「そういえば昨日の夜、帰る前に俺が戸締まりを確認した。その時、扉はちゃんと閉まってたよ」
全員が振り向く。
「外から侵入した可能性は?」
アルエットが聞くとシュエットは首を横に振った。
「窓は全部内側から掛かってた。裏口も同じ」
団長が眉を寄せた。
「つまり、盗んだ奴は、昨日の夜にここへ入れた人間か」
シュラが床を見ると、埃の上にいくつかの靴跡がある。
だが、これは稽古で何人も歩き回った後で、新しいものと古いものの区別がつかない。
「……これでは、何も分かりませんわ」
言葉とは裏腹に、シュラの目は鋭かった。
胸元へ手を当てると、そこにはもう何もない。
「団長、今日の稽古は予定通り行いますわ」
団長が目を見開く。
「この状況で?」
「だからこそです。犯人が誰であれ、わたくしたちが騒げば警戒されます。まずは、昨日ここにいた人間と、薬の保管場所へ触れられた時間を整理しますわ」
シュラは衣装箱を閉じ、団長は頷く。
「分かった、俺も調べる。ただし、一人で抱え込むなよ」
「ありがとうございます」
シュラは倉庫の隅に目を向け、昨日までそこにあった小瓶の姿を思い浮かべる。
「……必ず見つけます」
そのとき、倉庫の外から港の鐘が鳴り、団員たちが稽古へ戻っていく。
シュラも水槽へ身体を戻したが、譜面を開いても文字は頭に入ってこない。
ふと水槽の底へ目を落とすと、水面に映った自分の顔がいつもより遠く見えた。
切り札は消え、その行き先すら分からない。
シュラは譜面を閉じた。
「誰が持っていったのでしょうか……」
シュラは水槽の縁を爪が白くなるほど強く握った。




