執念
「よし! 全員、集合!」
団長ルージュゴルジュの声が朝の稽古場に響いた。
稽古場は港の近くにある古い荷置き場だった。
潮風に晒された板壁はところどころ反り、天井から吊るしたランプは、朝だというのに薄暗い光を落としている。
床には縄や木箱が積まれ、隅には演目で使う道具が所狭しと並んでいた。
シュラは水槽の中から、集まった団員たちを見渡した。
グリヴは片脚の義足を軽く鳴らしながら、空中ブランコの縄を肩に担いでいる。
トーロは腕を組み、筋肉の盛り上がった胸を反らしていた。
パンソンは赤い帽子を深くかぶり直し、シュエットは片腕で器用に三つのボールを宙へ放っている。
アルエットは長い緑の髪を結い上げ、指先で綱の張りを確かめていた。
「先日、タイムアタック家から余興の候補として検討するとの返事が来た」
団長が言うと、倉庫の空気が一気に沸いた。
「大貴族の結婚式だぞ!」
「王都の客が一度に見てくれるってこと?」
「お菓子は出るかな!」
パンソンの最後の一言に、トーロが笑った。
「お前、何する、つもり」
「もちろん演技だよ。お菓子も食べるけど」
パンソンの答えに笑い声が上がる。
シュラは尾びれを水槽の底に添え、皆の顔を見た。
浮かれている者もいれば、すでに段取りを考えている者もいる。
「ただし、まだ正式な決定ではありませんわ。候補に入っただけです。選ばれるためには、先方の期待に応える舞台を見せなくてはなりません」
シュラが言うと、団員たちの視線が集まった。
「任せろ! オデ、力、強い」
トーロが拳を打ち合わせ、鈍い音が倉庫に響く。
「力だけでは足りませんわ。演目の流れも、見せ方も、音楽も。ひとつでも崩れれば、舞台全体が鈍ります」
「おお、厳しいねえ」
団長が口笛を吹く。
「でも、その通りだ。ここで一度、最初から最後まで通してみよう」
稽古が始まった。
最初の曲芸では、シュエットが片腕でボールを操りながら、足元の小さな台を踏み渡る。
いつもなら観客の笑いを誘う軽妙な動きも、今日は少し違った。
台から台へ移る瞬間、彼はわずかに顔を上げ、観客席に見立てた空間へ視線を送る。
「そこ、もう一度だ」
団長が声をかけると、シュエットは片眉を上げボールを手の甲で受け止める。
「今の、失敗した?」
「失敗ではないな。だが、見せ場が一瞬で終わってしまった。客が驚く前に次へ進んでしまっている」
「間を作れってことか」
「そうだ。ほんの一呼吸でいい」
シュエットは頷き、もう一度台へ上がった。
今度は最後の一歩で動きを止め、ボールを高く放る。
宙に浮いた球がランプの光を受けてきらめき、落ちてくるまでの短い時間、彼の白塗りの顔が客席へ向けられた。
「そうだ!」
団長が手を叩くと、シュエットは落ちてきた球を受け止め得意げに肩をすくめた。
「一呼吸ね。覚えたよ」
次はグリヴの空中ブランコだった。
縄が軋み、彼女の身体が高く舞い上がる。
義足が振り子のように揺れ、空中で一回転。
着地は見事だったが、アルエットは眉を寄せた。
「もう少し、頂点で静止できないかしら?」
「義足が重い、止めると振り戻しが遅れるんだ。無理に止めれば、次の動作が崩れるよ」
グリヴは息を整えながら答えた。
「それじゃあ、止まって見えるようにしましょう。頂点へ達する直前に照明を絞って、音を一拍だけ抜くの。観客は暗がりの中で動きを追おうとする。次の瞬間に光を戻せば、あなたが空中で止まったように見えるはず」
グリヴはしばらく考え、それから口の端を上げた。
「いいね。あたしの脚を隠すんじゃなくて、見せ方を変えるわけだ」
「そうよ。あなたの技を、あなた自身が一番美しく見せるの」
その言葉に、グリヴは一度だけ目を伏せた。
義足の金具を確かめる指先が、ほんの少し緩む。
稽古は昼を過ぎても続いた。
トーロは重い鉄球を持ち上げ、肩の上で回す演目を繰り返した。
パンソンは火の輪をくぐるたび、着地の位置が少しずつずれていく。
アルエットは綱の上で身体を反らし、観客へ手を振る動きを何度も試していた。
「パンソン、着地、右過ぎ」
「わかってる! でも火が近いと、つい急いじゃうんだ」
「急ぐ、大丈夫。急ぎすぎ、ダメ」
「難しいこと言うなあ!」
「できる、大丈夫。足元見る」
パンソンが輪を抜け、勢い余って床に転がった。
「うわっ!」
「パンソン!」
アルエットが駆け寄る。
団長も立ち上がったが、少年はすぐに起き上がり、帽子を拾って頭に戻した。
「大丈夫! ちょっと床と仲良くなっただけ!」
「床はお前と仲良くなりたくないそうだ」
シュエットが言うと皆が笑い、シュラも口元を緩めた。
だが、笑い声の後に残るのは床を擦る靴音と荒い呼吸だった。
誰もが自分の持ち場で、少しずつ限界を押し広げている。
夕方、通し稽古を再開した。
音楽が始まり、団員たちが次々と舞台へ出る。
シュエットの球が宙を舞い、グリヴが高く飛び、トーロが鉄球を持ち上げる。
パンソンが火の輪をくぐり、アルエットが綱の上で片手を広げた。
最後にシュラの歌が重なる。
水槽の水は昼の熱を残し、肌にまとわりつくように温かかった。
喉を開くと声が倉庫の梁へ届き、壁に反射して戻ってくる。
歌の旋律に合わせて、団員たちの動きがひとつの流れになった。
だが最後の音が消えたとき、団長は腕を組んだまま唸った。
「悪くない。だが、まだ足りないな」
団員たちの肩が落ちる。
「どこがですの?」
シュラが尋ねると、団長は舞台代わりの床を指した。
「一人ひとりの技は立派だ。けれど、今はそれぞれが自分の見せ場を持っているだけだ。客にとっては、演目が順番に並んでいるように見える。次の演目が始まるまでの空白をなくそう。道具を運ぶ者も、音を出す者も、全員が舞台の一部になるんだ」
シュラは目を伏せ、先ほどまでの流れを思い返した。
「……確かに、わたくしの歌が始まる前に、少し間がありましたわね」
「そこだ。お前の歌を合図に、舞台の景色が変わるようにできないか」
シュラは水槽の縁を握った。
「できますわ。歌い出しを少し早めます。アルエット、あなたが綱を降りる動きに合わせて、最初の音を入れましょう。グリヴの着地の後、照明が戻る瞬間にトーロが鉄球を掲げる。そこからパンソンが出てくれば、視線が途切れません」
「お、いいじゃないか」
団長が頷く。
「ただし、全員の動きを合わせる必要がありますわ。もう一度、最初から」
「今から?」
アルエットが額の汗を拭う。
「今からですわ」
シュラの声に、団員たちは顔を見合わせた。
やがてグリヴが肩を回し、トーロが鉄球を床へ置き直す。
パンソンは帽子をかぶり直し、シュエットはボールを拾い集めた。
「よし、もう一回!」
誰からともなく声が上がる。
外では港の鐘が鳴り、窓の隙間から夕暮れの橙色が差し込んでいた。
団員たちの影が長く伸び、汗が床に落ち、息が乱れ、何度も同じ箇所で立ち止まった。
失敗するたびに誰かが意見を出し、動きを変え、道具の位置を直し、音楽の拍を数え直す。
シュラもまた、歌い直した。
喉がひりついても、水を飲んで休むと、すぐに譜面へ目を戻した。
「シュラ、少し休め。声が枯れたら舞台に立てないぞ」
団長が声をかける。
「まだ歌えますわ。わたくしの声は、わたくしが一番よく知っています」
そう言い切ったものの次の一音はかすれ、シュラは口を閉じた。
団長は何も言わず、水差しを彼女の手元へ置いた。
「休むのも稽古のうちだ」
シュラは水を一口飲み、冷たさを喉へ流し込んだ。
指先が小さく震えている。
水面に映る自分の顔は、疲れているのに、目だけは妙に冴えていた。
やがて夜が深まり、最後の通し稽古が終わった。
誰もすぐには動かず、倉庫には汗と木屑、燃え残った火薬の匂いが漂っている。
団員たちは床へ座り込み、荒い息を吐いていた。
「……最初より、ずっとよくなったな。でも、まだ完成じゃない」
団長が言った。
「ええ、完成させますわ。必ず」
シュラは水槽の中で背筋を伸ばし、団員たちは一人ずつ顔を上げた。
誰も、なぜそこまで結婚式の余興にこだわるのかは尋ねなかった。
シュラも理由を語らないが、彼らが舞台のために差し出した時間と汗を、決して無駄にするつもりはなかった。
胸元の小瓶が、衣装の布越しに硬く当たる。
復讐はシュラ一人の願いだが、この舞台はもう彼女一人のものではない。
シュラは小瓶から手を離し、濡れた髪を肩の後ろへ払った。
「明日も、同じ時刻に集合ですわ」
「おう!」
団員たちの返事が、夜の稽古場に響いた。




