第4話:『臆病者の盾』―消し炭の勲章―
ギルドの一階から響いてくる下品な笑い声は、厚い床板を通り抜けて、地下の遺品管理室にまで汚らしく染み出してきていた。
「いやあ、助かったよ。あの臆病者のアルスが盾を放り出して真っ先に逃げてくれたおかげで、火竜の意識が逸れてな!」
酒杯を掲げて大笑いしているのは、アルスの元仲間たちだ。
ロビーのテーブルを囲む彼らは、酒をガブガブと喉に流し込み、下卑た笑みを浮かべながらさらに言葉を重ねる。
「本当さ! おかげで俺たちは傷一つなく生還できた。裏切り者の末路なんてあんなもんだよな。――おい、もっと酒を持ってこい! ざまあみろだ!」
魔石灯の薄明かりの下、エレナは白紙の登録用紙を整える手を一瞬だけ止め、地上へと続く階段を静かに見上げた。『アルス』。それが、今一階で英雄気取りの冒険者たちに罵られている、帰らぬ人の名前だった。
バタン、と階段の上の扉が開く音がした。
降りてきたのは、一階の華やかな連中とは違う、煤けた革鎧を着た年配のベテラン冒険者だった。彼はひどく暗い顔をして、ボロ布に包まれた細長い遺品をエレナの机の上にどさりと置いた。
「……迷宮の四層、火竜の通り道で見つけた。持ち主のギルドプレートは、熱で半分溶けかけてるが……まだ読める。アルスのやつだ」
男は一階の喧騒に苦々しい視線を向け、吐き捨てるように言った。
「一階の受付に持っていかったんだがな、あいつらが『裏切り者の盾なんか呪われてる』『触りたくもない』って騒ぎやがって……。すまねえ、地下に回させてくれ」
「……いいえ。ありがとうございます」
エレナは静かに応じた。男は気の毒そうな目を一度だけエレナに向けると、何も言わずに地下室を去っていった。
静寂が戻った部屋で、エレナは机の上の丸盾をじっと見つめた。
煤で汚れ、酷くひび割れた鉄の盾。
(四層……火竜の通り道……)
エレナはいつも通り、右手の手袋をゆっくりと脱いだ。
露わになった白い指先が、盾の数センチ上で、ぴたりと止まる。
彼女の指先が、かすかに震えていた。
火竜。その二文字が意味する「痛みの凄まじさ」を、エレナの脳が本能的に察知し、拒絶していた。皮膚が沸騰し、肉が消し炭になる感覚。
それを今から、五感のすべてで、生身のまま受け止めなければならない。
呼吸が浅くなり、冷や汗が手のひらににじむ。エレナは一度、右手を胸元に引き戻し、自分の右手の薬指にはめられた、一本の古びた銀の指輪を左手でそっと撫でた。
その冷たく、しかし確かな硬質な感触を指先で確かめ、そこから生きるための重みを貰うことで、エレナはもう一度右手を伸ばした。今度は迷わなかった。
彼女の指先が、焦げた鉄の表面に、深く触れる。
――ドクン、と世界が反転し、エレナの意識はアルスの精神へと深くダイブした。
「――っあ、ガ、ハッ……!!」
触れた瞬間、エレナは悲鳴すら上げられず、椅子から床へと転げ落ちた。
視界のすべてが、爆発的な赤と黒に染まる。
熱い。熱いなんて生易しいものではなかった。
全身の皮膚がまたたく間に焼けただれ、体内の水分が沸騰していくような、圧倒的な、暴力的な灼熱。現実の彼女の身体は冷たい石の床に這いつくばっているのに、脳は今、骨まで焼き尽くされる激痛の真ん中にいた。
あまりの熱さに呼吸ができず、胸をかきむしり、服を引き裂きそうになりながら、エレナは床の上をのたうち回った。涙と脂汗が、床の埃をドロドロに濡らしていく。
それでも、エレナの右手は、丸盾の柄を固く、固く握りしめたまま離さなかった。
(まだ……まだ消えないで……! あなたの、本当の姿を……っ)
赤黒い視界の向こう。空気が熱波で歪む迷宮の四層。
アルスの脳と同化したエレナの目の前には、闇の中から巨体を現した、紅蓮に燃え盛る火竜の姿があった。
その圧倒的な威圧感を前に、アルスのパーティーの仲間たちは武器を放り出し、涙と尿に塗れて腰を抜かしていた。
(……駄目だ。こいつら、完全に怯えて動けなくなってやがる。火竜の次の獲物は、間違いなくこいつらだ)
アルスの脳細胞が、極限の恐怖の中で、仲間を救うための生き残りの計算を激しく弾き出していく。
火竜の喉の奥が、次に放たれる熱線のエネルギーで赤々と膨れ上がっていくのが視えた。
今ここで自分が逃げれば、硬直した仲間たちは一瞬で消し炭になる。二人同時には抱えられない。ならば、火竜の意識を自分一人に引きつけ、その隙に仲間を正気に戻して走らせるしかない。
(俺のこの丸盾なら……火竜の最初のブレスの直撃を、角度さえ合わせれば、数秒なら逸らせるはずだ。その数秒があれば、こいつらは通路の影に逃げ込める!)
アルスは迷うことなく、一歩前へと踏み出した。恐怖で足がすくみそうになるのを、自らの意志の力だけで強引に床へと踏みつける。
「こっちだ、トカゲ野郎――ッ!!」
アルスは、左腕に構えた丸盾を、右手の剣の腹でガンガンと激しく叩き鳴らした。
洞窟全体に強烈に反響する金属音の轟音。彼は自らの命を完璧なエサにして、魔物の巨大な二つの眼球を、自分一人へと完璧に釘付けにした。
「走れ! 早く行け、後ろの通路へ滑り込めッ!!」
アルスは喉が裂けんばかりの声で、腰を抜かした仲間たちの背中に向けて叫んだ。
その必死の怒号に弾かれたように、仲間たちは四つん這いになりながら、必死の形相で背後の安全な通路へと転がり出していく。それを見届けたアルスは、心の中で深く息を吐いた。
(よし、逃げ切ったな……。ミリア、俺、ちゃんと約束を守れたよ。仲間を見捨てない、かっこいい冒険者になれたよ……)
最愛の人の笑顔を脳裏に抱きしめ、アルスは正面から迫る絶望を迎え撃つために、丸盾を真っ直ぐに構え直した。
直後、火竜の顎から放たれた、すべてを溶かす圧倒的な劫火が、アルスの身体を正面から完全に呑み込んだ。
「が、あ、あぁぁぁあああ――ッ!!」
地下室の床の上で、エレナの身体が狂ったように跳ね上がった。現実の彼女の肉体に傷はない。しかし、脳の神経が、ありもしない「生きたまま熱線に焼かれ、肉が沸騰し、炭化していく圧倒的な激痛」を正確に伝えてくる。
尋常ではない冷や汗が吹き出し、激しい目眩が視界を明滅させる。あまりの苦しさに服を引き裂きそうになりながらも、エレナはアルスの精神から絶対に意識を逸らさなかった。
構えた丸盾が火竜の熱量によってまたたく間に赤熱し、アルスの左腕の皮膚をじゅくじゅくと焼き溶かしていく感覚。鉄が肉に溶け込み、骨が熱で爆ぜる凄まじい肉体的ディテールが、エレナの全身の神経を焼き切ろうとする。
それでもアルスは、仲間が完全に曲がり角の向こうへ消えるまでの数秒間、自らの身体が炭になるその瞬間まで、丸盾を前に突き出し、火竜の前に立ち塞がり続けた。
炎の中で、無惨に火竜の熱線に肌を焼かれ、全身の脂を噴き出しながら消し炭になっていくアルスの最期。
そこにはもう、冷静な冒険者の仮面など残っていなかった。ただ、一人の人間としての、必死で無様な、生への絶望的な叫びが炎の中に響いていた。
「あつい、熱いよ、身体が……溶ける……っ!」
迫る死の灼熱にガタガタと震えながら、アルスは血の混じった涙を流し、届くはずのない炎の向こうへ、声を枯らして叫び続けた。
「嫌だ……まだ死にたくない、お前を残して……逝きたくないよ……っ! ミリア……ミリア、ごめん、ごめんよ……っ! 痛い、熱い、誰か……助けてくれ、助けてくれぇぇええっ……!!」
パツン、と世界の糸が切れ、地下室の静寂が戻ってきた。
「……はぁっ、はぁっ、う, あ、あ……っ」
床の上で、エレナは犬のように四つん這いになり、激しく胃の腑を波打たせていた。
追体験は終わった。だが、現実の身体には、まだ全身を火あぶりにされているかのような、灼熱と痛みの残像がジクジクと暴れている。指先が、ガタガタと痙攣を繰り返している。
エレナは涙で濡れた顔を床に擦り付けながら、荒い呼吸を整えるために、長い時間をかけてその場にじっと蹲っていた。
どれほどの間、そうしていただろう。
かすかに動くようになった腕で、エレナはようやく上体を起こした。
机の上には、何も言わない焦げた丸盾が、ただ静かに転がっている。
エレナは親指で涙を拭うと、 la 立ち上がるようにして椅子に戻り、震える手でアルスの死亡登録用紙を手繰り寄せた。その緊急連絡先の欄に書かれた、一人の少女――ミリアの名前を見つめる。
「……あなたは、裏切ってなんかいない」
エレナの声は、激痛の余韻で掠れていた。けれど、その瞳には、地下室の闇よりも深い、静かな怒りの炎が宿っていた。
彼女は震える手で焦げた盾を丁寧に布で包むと、まだ激痛に震える身体を引きずるようにして、地上(外)へと続く階段へ向かって、一歩を踏み出した。




