第5話:『臆病者の盾』―涙が暴く火竜の嘘―
薄暗い地下室から一階のロビーへ上がると、そこは相変わらず酒と料理の匂い、そして下俗な笑い声に満ちていた。
「いやあ、本当にアルスのやつは傑作だったよ。あの世で今頃、自分のマヌケさを悔やんでるんじゃねえか?」
酒杯を掲げて大笑いしているのは、アルスの元仲間たちだ。
布に包んだ丸盾を胸に抱いたエレナは、彼らのテーブルの前で、不意に足を止めた。
ぴたり、とエレナの動きが止まる。
彼女の表情は、完全に生気を失った「真顔」だった。何も映さないガラス玉のような瞳で、ただじっと、大騒ぎする男たちを見つめている。
そのあまりに不気味な静けさに、男たちの一人が気づき、眉をひそめた。
「あぁ? なんだよ墓守の女。死人の呪いでも分け与えに来たのか?」
男たちの冷やかすような視線が集まる。ギルドの空気に関心という名の「間」が生まれる。
しかし、エレナは彼らに一言も返さなかった。
ただ、一瞥をくれただけで、静かに背を向け、ギルドの重い正面扉を開けて外へと歩み出していく。
外は、冷たい夕暮れの雨が降り始めていた。
ギルドの門の脇。軒下もない石壁に背を預け、一人の少女がぽつんと佇んでいた。
雨に濡れるのも構わず、ただじっと地面を見つめている。周囲を通る冒険者たちから「裏切り者の女だ」「まだ待ってるよ、哀れに」と蔑みの視線を浴びながらも、彼女はそこから動こうとしなかった。
エレナは少女の前に進み出ると、静かにその歩みを止めた。
「……アルス・ノイマンさんの、ご親族ですか」
少女は弾かれたように顔を上げた。ひどくやつれ、涙の跡で汚れた顔。
エレナは、自分の胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。あの火竜のブレスの、肉を焦がす激痛が、今も背中の裏でチリチリと燻っている。
それを、この少女はずっと一人で、心の奥で耐え続けていたのだ。
エレナはすぐには言葉を重ねなかった。
ただ、濡れた布の包みを丁寧にはぎ取り、中から、泥と煤で真っ黒になった「小さな丸盾」を、少女の前に差し出した。
少女の息が止まる。
「これは……彼の、盾……」
少女の細い指が、焦げた鉄の表面に触れる。
「あの……教えてください。一階の人たちは、彼がみんなを見捨てて真っ先に逃げたって言ってます。でも、私にはどうしても信じられないんです。アルスは、そんな人じゃなかった……っ」
少女の瞳から、堪えきれない涙が溢れ出す。
「おいおい、何泣いてんだよ。裏切り者の身内さんよぉ」
その時、ギルドの扉が開き、中から酒瓶を持った例の男たちがゾロゾロと出てきた。彼らは少女の涙を見て、せせら笑う。
「墓守の女も余計なことすんなよ。その盾はよ、アルスが火竜を前にして腰を抜かして、俺たちを盾にするために放り投げた『臆病者の証拠』なんだからさあ!」
男たちの下劣な声が、雨の街路に響く。野次馬の冒険者たちが、遠巻きに集まり始めていた。
エレナはゆっくりと、生き残りたちのほうへ振り返った。
その顔は、やはり完全な「真顔」だった。怒りも、憎しみも、何もかもを心の底へ沈めた、冷徹な仮面。
「……嘘をついているのは、あなたたちですね」
エレナの声は、ひどく静かだった。叫んだわけでもない。
しかし、その声は雨の音を突き破り、集まった野次馬たちの私語をぴたりと黙らせるほど、不思議なほど芯が通っていた。
「あぁ!? なんだと、墓守の分際で俺たちに口を――」
凄む男たちの言葉を、エレナは一歩踏み出すことで遮った。
エレナの脳裏に、あの炎の中で、一人で盾を叩いていたアルスの姿が、彼の最期の言葉が、怒涛の勢いで蘇ってくる。自分たちを救ってくれた死者を「臆病者」と呼び、残された恋人を嘲笑うこの男たちが、どうしても許せなかった。
男たちがエレナの放つ、地下室の闇のような威圧感に思わず息を呑んだ、その静寂の間。
冷徹だったエレナの真顔が、かすかに、悲痛に歪んだ。
彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと、大粒の涙が溢れ出した。それは堪えきれなかった涙であり、誰にも知られず命を捧げたアルスへの、痛切な悲しみの涙だった。
エレナは涙を拭おうともせず、泣き崩れるような声を必死に喉の奥で押し殺し、一言一言を噛み締めるように言葉を紡いだ。
「火竜のブレスの前に、腰を抜かしたあなたたちを救うため……っ! 彼は、この盾を叩いて、一人で魔物を引きつけた。彼は逃げたのではない……! あなたたちの盾になって、炭になるまで戦ったのです……っ!」
涙を流しながらも、エレナの瞳の奥にある光は、決して折れていなかった。
男たちの顔から、一気に血の気が引いていく。
「な、何デタラメを言ってやがる! 証拠はあるのかよ!」
「証拠なら、ここにあります」
エレナは振り返り、呆然とする少女の手を優しく取ると、それをアルスの丸盾の、一番深く焦げついた中央部分へと重ねさせた。エレナ自身もその上から、自分の素手を、そっと重ねる。
(繋がって……アルスさんの、本当の心を……!)
エレナが意識を集中させた瞬間、少女の身体がびくんと大きく震えた。
少女の脳裏に、直接言葉が届いたわけではない。しかし、盾の柄を通じて、信じられないほど温かい、懐かしい気配が流れ込んできたのだ。
それは、いつも自分を優しく抱きしめてくれた、アルスの手のひらの温もり。
そして、青年の魂の叫びが、少女の胸の奥で確かに響いた。
『……生きて、帰れなくて、ごめん……。幸せに、なってくれ……』
「アルス……! ああ、アルス、あなたなのね……っ!」
少女はそれが「彼の本物の心」だと確信し、焦げた丸盾を狂おしいほど強く胸に抱きしめ、声を上げて泣き崩れた。
その真実の涙の前に、嘘をついていた生き残りたちは、集まった周囲の冒険者たちの冷ややかな白い目に耐えかねて、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「……ありがとうございました」
しばらくして、雨の上がる空の下。少女は盾を大切に抱え、エレナに深く、深く頭を下げた。
「彼が臆病者じゃなかったって、私に教えてくれて……本当に、ありがとうございました」
「いいえ。……アルスさんの声が、迷子にならなくてよかったです」
エレナは静かに微笑み、少女を見送った。
一人残された街路で、エレナは自分の右手に、ゆっくりと黒い手袋を嵌め直した。
身体の痛みはまだ消えない。けれど、胸の奥は、驚くほど温かかった。
エレナはポケットの奥にある、行方不明の恋人の「銀の指輪」に指先で触れる。
「……もしあなたにその時が来ても、私が絶対に、あなたの本当の姿を見つけてあげるから」
恋人の面影を遠い空に描きながら、エレナは自分の居場所である、あの薄暗いギルドの地下室へと、確かな足取りで歩き始めた。




