第2話:鉄の記憶、身を切る痛み
パチ、と魔石灯の炎が小さく爆ぜた。
誰もいなくなった地下室で、エレナは一人、机の上に横たわる大剣を見つめていた。
『あの酒浸りのガルガン爺さんだ。ゴブリンの群れに不覚を取って死んでやがった』
先ほどの少年の、悔しさと恐怖に満ちた掠れた声が、冷え切った空気の中にまだ生々しく残っている。
エレナは椅子の背もたれにそっと体を預け、自分の右手を目の前にかざした。
手袋の脱げた、白く頼りない指先。それが今から何を呼び寄せ、自分の肉体にどんな地獄をもたらすか、彼女自身が一番よく知っている。
エレナの指先が、目に見えて小さく震え始めた。
これから受けるであろう、肉体を引き裂かれる圧倒的な激痛を予感し、喉の奥から「く、っ……」と息が詰まる音が漏れる。
呼吸が急激に浅くなり、胸の鼓動が早鐘のように鳴り響いた。エレナは一度、右手を胸元で強く握りしめて目を閉じ、冷たい地下の空気を肺の奥まで吸い込んだ。
彼女はすべての躊躇いを断ち切るように目を開けると、覚悟を決めて、素手でその大剣の、黒く汚れた柄に深く触れた。
――ドクン、と世界が爆発した。
視界が、一瞬で赤黒い暗闇に染まる。
カビの臭いは完全に消え去り、代わりに鼻腔を突き刺したのは、濃厚な泥の臭いと、むっとするような狂暴な魔物の体臭だった。
(あ、ガ、は、あ――っ……!)
エレナの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
激しい息切れ。肺が焼き切れるように熱い。現実の彼女の身体は地下の椅子に座っているはずなのに、脳のすべての神経は今、冷たい迷宮の土を泥まみれで這い回っている。
「……急げ!」
「走れ、若造ども……っ! 振り返るんじゃねえ、前だけ見て走れ……っ!!」
心臓が破裂しそうなほど脈打つ。ガルガンの脳と同化したエレナの視界の端には、恐怖に顔を歪めて必死に逃げていく、さっきの若い三人組の背中がはっきりと視えていた。
ガルガンは逃げなかった。いや、最初から逃げる気など微塵もなかった。若者たちを一人でも多く地上へ帰すための肉体の盾――『殿』として、たった一人で、狭い一本道の通路を塞ぐように立ち塞がっていた。
キチキチキチ、と耳を聾するような不快な鳴き声を上げ、緑色の醜悪な影が無数に押し寄せてくる。
「オラァァァアアア――ッ!!」
ガルガンは老いた身に鞭打ち、若者たちの作ったその大剣を力任せに振り回した。重量に振り回されそうになる肉体を、ベテランの技術だけで強引にねじ伏せる。刃が肉を断ち、骨を砕く鈍い感触が、エレナの腕を通じて脳へと直接流れ込んでくる。
(まだだ……まだこいつらを先へ行かせるわけにはいかねえ……っ! 若造どもが、安全な区域まで逃げ切るまでは……俺がここを絶対に塞ぐ……っ!)
老いた肺は酸素を拒み、心臓は狂ったように悲鳴を上げている。だが、ガルガンの精神は、目の前の命を救うという執念だけで燃え上がっていた。
「まだまだァッ!! 相手になってやるから全員でかかってきやがれッ!!」
迫る怪物の肉をまとめて叩き斬る。
だが、老いた身体はすでに限界を疾うに超えていた。息が上がったその一瞬の隙を突かれ、一体のゴブリンが死角である背後へと回り込む。
――背中に、鋭い骨のナイフが深く突き立てられた。
「ガハッ……、あ、あぁぁぁあああ――ッ!!」
遺品管理室の床の上に、エレナの身体が激しく跳ね上がり、そのまま崩れ落ちた。
現実の彼女の背中に傷はない。しかし、脳の神経が錯覚した「背中の肉を引き裂かれ、脊椎をガリガリと削られる圧倒的な激痛」に、エレナの身体は弓なりに反り返り、ガタガタと狂ったように痙攣を始めた。
尋常ではない冷や汗が吹き出し、激しい目眩が視界を明滅させる。
しかし、ガルガンの戦いはまだ終わっていなかった。一本刺されてなお、彼は大剣を杖代わりに立ち上がり、眼前の魔物を睨みつける。
(……無事に出たな。よかった……本当に、よかった……)
通路の奥で、若い三人組が安全な扉の向こうへ滑り込んだのを、ガルガンはその霞む目でしっかりと確認した。
相棒たちが助かった。その事実を目にした瞬間、ガルガンの胸を満たしたのは、世界中の何よりも深い『安心』だった。
それと同時に、ガルガンの心の奥底から、自分の帰りを待つ大切な息子への強い想いが、堰を切ったように溢れ出してくる。
(お前の打った剣は……最後まで、一本たりとも、折れなかったぞ……。重くて無骨で、不器用なお前そっくりの大剣だ。だがな、こいつが最後に、三人の若い命を救い繋いだんだ……。良い職人に、なったな……。お前は俺の……自慢の、息子だ……)
胸が張り裂けそうなほどの誇りと愛、息子の未来への祈りを、ガルガンは生涯で最も強く、その魂に抱きしめた。
そして、全ての役割を終えたかのように、大剣を握る両手から力を抜いた。
直後、退路のない通路で、群がる魔物たちの刃が、ガルガンの四肢を、脇腹を、幾度も無惨に突き刺し、抉っていく。
「ガ、あ……っ、ガハッ……! 痛、痛いッ、あぁぁぁあああーーッ!!」
床の上のエレナは、血を吐くような凄惨な絶叫を漏らしながら床の上をのたうち回った。
脳の神経が、ありもしない「生きたまま肉を毟り取られ、内臓を喰らわれる圧倒的な激痛」を正確に伝えてくる。
内臓を容赦なく貪り食われ、体温が急速に奪われていく死の絶望感。あまりの苦しさに自分の服を引き裂きそうになりながらも、エレナはガルガンの精神から絶対に意識を逸らさなかった。
暗闇の中で、無惨に魔物の顎に肉体を貪られ、骨を噛み砕かれていくガルガンの最期。
そこにはもう、ベテランの冷静な仮面など残っていなかった。ただ、一人の人間としての、必死で無様な、生への絶望的な叫びが血の海に響いていた。
肉が抉られ、体温が急速に奪われていく地獄のような恐怖の中で、ガルガンの目から、大粒の涙が溢れ出した。
『嫌だ……嫌だ、死にたくない、まだ死にたくない……っ! 痛い、痛いよ、誰か……!』
迫る死の冷たさにガタガタと震えながら、ガルガンは血の混じった涙を流し、届くはずのない暗闇の向こうへ、声を枯らして叫び続けた。
『会いたい……お前、会いたいよ……! 寂しい、痛い、誰か……助けてくれ、助けてくれぇぇええっ……!!』
パツン、と世界の糸が完全に切れ、地下室の静寂が戻ってきた。
「……はぁっ、はぁっ、う、あ、あ……っ」
冷たい石の床の上で、エレナは犬のように四つん這いになり、激しく胸を上下させていた。
追体験は終わった。だが、身体には、まだ全身を貪り喰らわれているかのような、灼熱と激痛の残像がジクジクと鉛のように暴れている。感覚が狂った右手は麻痺し、指先がガタガタと痙攣を繰り返していた。
あまりの凄惨さと、ガルガンが最期に叫んだ剥き出しの本音の重さに、エレナの目からも涙がボロボロと溢れ、床の埃をドロドロに濡らした。
エレナは長い時間をかけて呼吸を整え、震える腕で慢行するようにして立ち上がった。
机の上の死亡登録用紙。
エレナはかすかに震える手で羊皮紙を手繰り寄せ、その緊急連絡先の欄に書かれた文字を見つめた。
そこには、『バロウ鍛冶工房』の住所と、その職人の名前が記されていた。
エレナはまだ激痛に震える身体を無理やり引きずるようにして立ち上がり、壁に掛けられた灰色の外套を羽織った。布に包んだ大剣をしっかりと腕に抱え、ガルガンの本当の全てを届けるため、地下室の階段を登り始めた。




