表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第1話:地下室の灯火(ともしび)

「おめでとうございます! 念願の銀等級への昇格ですね!」


「おいおい、受付のミナちゃんにそう言われると照れるな。今夜は奢りだ、浴びるほど飲むぞ!」


朝の瑞々しい陽光が差し込むギルドの一階は、勝鬨かちどきと熱気に満ち溢れていた。磨き上げられた白大理石の床は鏡のように冒険者たちの姿を映し、窓辺に飾られた色鮮やかな季節の花々がその場に華を添えている。


カウンターの奥では、よく通る声と輝くような笑顔で受付嬢たちが英雄たちをもてなし、ロビーの隅々にまで新しい冒険への活気が満ちていた。

そのまばゆい喧騒の特等席から、最も遠い薄暗い壁際。


そこには、頑丈な鉄格子のはめられた、重い樫の木の扉がひっそりと佇んでいる。

エレナがその取っ手に手をかけた瞬間、すぐ後ろで「ヒッ」と短く空気を吸い込む音が響いた。


振り返ると、まだ制服の着こなしもぎこちない新人の受付嬢が、抱えた書類を落としそうになりながら硬直している。エレナの表情はピクリとも動かなかった。


感情の起伏を一切削ぎ落とした、冷徹なまでの「真顔」のまま、ただ静かに新人の受付嬢を見つめ返す。

新人の顔は恐怖で引きつり、視線はエレナの顔ではなく、彼女の「素手」へと向けられていた。そのき出しの白い手肌に、まるで死神の鎌でも見るかのような怯えを浮かべている。


エレナが口を開くより前に、奥からすっと床の音を立てて先輩の受付嬢がやってきた。彼女は新人の肩を乱暴に掴み、エレナから遠ざけるように背後へ引き剥がす。


「こら、関わっちゃダメって言ったでしょ」


先輩の受付嬢の声は、心底不快そうに低く、刺すように冷たかった。彼女はエレナの存在などそこには無いかのように無視しながら、新人の耳元で囁く。


「地下の『墓守部屋』の人よ。一階の華やかなお仕事とは違う、死人の相手。……ただの地味な残り香のする、呪われた無能の部屋。放っておきなさい。顔を合わせるだけで、死人の呪いがうつるわよ」


ヒソヒソと交わされる侮蔑の言葉は、ロビーの喧騒にかき消されることなく、エレナの鼓膜へと真っ直ぐに届いた。周囲の冒険者たちも、エレナの灰色の外套コートを目にすると、気味が悪そうにパッと道を開け、冷ややかな視線を投げかけてくる。


それでもエレナの真顔は凍りついたように崩れなかった。怒りも、悲しみも、その瞳には一切浮かばない。彼女はただ静かに鉄格子の扉を開け、一階の陽気な笑い声を背に、薄暗い闇の中へと足を踏み入れた。

バタン、と重い鉄の音がして、背後の光と喧騒が完全に遮断される。


途端に鼻を突くのは、ひんやりとした地下特有のカビの臭い。そして、長年にわたって蓄積されてきた、鉄と、微かな乾いた血の匂い。


窓のない石造りの階段を、エレナは一歩ずつ降りていく。カツ、カツ、と彼女のブーツの音だけが、湿った空間に虚しく反響していた。

階段の下に広がる「遺品管理室」は、一階とはまるで別世界だった。


壁一面に天井まで届くほど設えられた木製の棚。そこには、刃の欠けた長剣、引きちぎれた首飾り、へこんだ胸当てが、名前ごとに整然と並べられている。どれも薄く埃を被り、死者たちの生きた証として、ただ静まり返っていた。


エレナが自分の机に向かい、魔石灯の小さな炎を灯した時、階段の上から不揃いな足音が響いてきた。引きずるような、重苦しい足音。一階の英雄たちのものとは違う、泥を孕んだ足音だった。


現れたのは、傷だらけの軽い鎧を着た、若い三人組の冒険者だった。彼らは一階の華やかな連中とは違い、全員が顔を青ざめさせ、ひどく泥に汚れている。


リーダー格の少年の革鎧はあちこちが獣の爪のようなものでズタズタに引き裂かれ、剥き出しになった二の腕の肉からは、痛々しく赤黒い血がだらだらと滲み出していた。


隣の少年は右の足首を深く痛めているのか、少女の肩に全体重を預け、顔を真っ白にして脂汗を流しながら、辛うじて立っている状態だった。彼らの装備からは、冷たいダンジョンの泥と、恐怖の汗の臭いが強烈に漂っている。


リーダーの少年は激しく肩を上下させ、喉を鳴らしながら、ボロ布に包まれた大きな長物をエレナの机の上にどさりと置いた。


布の隙間から覗いたのは、刃こぼれだらけで、べっとりと黒い血の乾いた「一本の大剣」だった。そのつかには、見慣れたギルドの認識票がしっかりと結び付けられている。


「……これ、預かってくれ」


少年は壊れた玩具のように掠れた声で言った。言葉を発した瞬間、彼は痛む腕の激痛に耐えるようにしてグッと奥歯を噛み締め、その拳は悔しさからか、あるいは死の淵を彷徨った恐怖の余韻からか、ガタガタと細かく震え続けていた。


「一階の受付に持っていったら……『不吉だから早く地下に回せ』『触りたくもない』って騒がれてさ。……あの酒浸りのガルガン爺さんの剣だ。迷宮の二層で見つけた」


エレナは何も言わず、その真顔のまま、少年の言葉に耳を傾けた。少年の隣に立つ仲間の少女も、俯いたまま泥に汚れた衣服の裾を指の骨が白くなるほど固く握りしめ、ボロボロと大粒の涙を流して鼻をすすっている。


ゴブリンの群れに襲われ、仲間を失い、命からがら逃げ延びてきた彼らの精神は、すでに完全に崩壊しかけていた。


「俺たち……あの爺さんのこと、ずっと『ギルドのお荷物』って笑ってたんだ」


少年はそこで一度言葉を完全に詰まらせ、喉を激しく上下させた。あふれそうになる涙を堪えるように、歪に顔を歪める。


「まともな稼ぎも出せないくせに、いつも酒臭くてさ。……案の定、ゴブリンの群れに不覚を取って死んでやがった。自業自得だよな」


少年は吐き捨てるように言ったが、その瞳の奥は激しく細まり、冷たい洞窟の底で魔物に貪られていた老人の無惨な死に様が、強烈なフラッシュバックとなって彼を支配していた。少年は深く頭を垂れ、涙を泥に塗れた床へと叩きつけるように落としながら、震える声でさらに言葉を絞り出した。


「本当なら、あんな爺さんの遺品なんか、放っておけばよかったんだ。……だけど、俺たちだって、いつどこでああなるか分からねえだろ」


少年は自分の傷口を強く押さえ、痛みに顔を歪めながら、エレナの真顔を凝視した。


「自分もいつ命を落とすか分からず……家族の元に帰れないで、一人で暗い穴の底に居るのは、嫌だろ……悲しいだろ……っ。俺がくたばった時も、誰かがこうして、俺の持ち物を拾って地上に帰ってくれるって、そう信じてなきゃ……あんな暗い場所、恐ろしくて一歩も歩けねえよ……っ!!」


少年はついに堪えきれず、大剣の前で両手で顔を覆って泣き崩れた。少女もその背中に縋り付き、地下室には若い冒険者たちの痛烈な嗚咽おえつだけが響き渡った。


「……そうですね」


エレナは初めて口を開いた。その声は、冷え切った地下室の空気によく馴染む、静かで、穏やかなものだった。


「確かに、お預かりします。あなた方がそのお怪我の中で、命を懸けて持ち帰ってくれたから、この剣は迷子にならずに済みました。ギルドの職員として感謝を」


「感謝なんていいよ。……お互い様だ」


少年は袖で乱暴に涙を拭うと、痛む身体を互いに引きずるように支え合いながら、また重い足取りで階段を登っていった。地上へ戻る彼らの痛々しい背中を、エレナは真顔のまま静かに見送った。


静寂が戻った地下室で、エレナは引き出しを開け、一枚の羊皮紙を取り出した。まだ白紙の、死亡冒険者の登録用紙。


彼女はペンを執り、大剣の柄に刻まれた認識番号を、淡々と用紙に書き写していく。


『ガルガン・バロウ。死亡確認』


エレナは書き終えた用紙の横に、ぽつんと置かれた大剣を見つめる。

彼女の右手は、まだ手袋をめていない。白く、細い指先が、錆びて血のついた刃の表面を、静かに見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ