【終章 残響】
あれから、季節がひとつ巡った。
平家寺の境内には、春の風が吹いていた。
桜の花びらが舞い、鐘の音が遠くで響く。
あの夜のことを、透真はまだ夢のように感じていた。
芳子はもう戻らない。
けれど、不思議なことに、彼女のギターだけは無傷で見つかった。
今も寺の奥、供養塔のそばに安置されている。
夜になると、風に鳴るとも、誰かが爪弾くとも言われていた。
ある日、透真は久しぶりにその場所を訪れた。
古びた本堂の隅で、彼はスマホを取り出す。
画面には【芳子の夜曲】のバックアップデータ。
ネット上では全削除されたはずなのに、
なぜかこの一つだけが、彼の端末に残っていた。
「……消せって言われても、無理だよな」
苦笑しながら再生ボタンを押す。
スピーカーから流れるのは、あの優しい音色。
でも、以前よりも澄んでいた。
まるで“祈り”のように。
そのとき、風が吹いた。
桜の花びらが舞い込み、ギターの弦がひとりでに震えた。
「……透真くん」
懐かしい声が、確かに聞こえた。
透真は微笑んだ。
涙が滲み、ぼやけた視界の中で、
彼はギターのネックにそっと触れた。
「おかえり、芳子」
風が応えるように吹き抜け、
本堂の中の鈴がチリンと鳴った。
その音のあと、ふとスマホの画面が変わった。
動画のタイトルが自動的に書き換えられていく。
【芳子の夜曲 - 供養Ver.】
再生回数も、コメントもない。
けれど、動画の説明欄にはひとつだけ文字があった。
「聴いてくれて、ありがとう。
この音が、あなたの世界に届きますように。」
透真はしばらく無言で画面を見つめ、
そのあと、静かにスマホを閉じた。
彼の隣に座る見知らぬ少女が、ふと耳を傾けて言った。
「ねえ……今、音が聴こえたよね?」
「え?」
「なんか、すごくきれいな音……ギターみたいな……」
透真は小さく笑った。
「うん。たぶん、聴こえたんだと思う」
少女が不思議そうに首を傾げる。
その肩越しに、桜の花びらが舞い、
本堂の奥から――ほんの一瞬だけ、
優しい旋律が響いた。
(ほういち……ありがとう)
風が止み、世界が静かになる。
透真は目を閉じた。
それは悲しみではなく、
まるで音が“成仏”していくような、穏やかな静けさだった。
誰もが耳を澄ませば、
その旋律を、きっとどこかで聴くことができる。
夜風の音に、イヤホンの奥に、
あるいは誰かの心の中に。
――それが、芳子の残した“音”のかたち。
(完)




