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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.8 ~決死の迂回作戦、確かめ合った気持ち、車懸りの正体
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最終決戦!虎千代、贄姫!極限の死闘を制するのは…?

あの、織田信長を例にとるまでもない。

創造上の天才は、破壊を志向する。

文字通り、車懸りを生み出した虎千代のいくさは、この場にあるすべてを破壊した。

それは、歴史的に見れば当時の戦闘そのものの破壊と言えた。こればかりは信長も志向していない、純粋な破壊だった。巻き起こったのは猛威をふるう嵐であり、混沌そのものを生み出す力だった。確かに信長は兵器のあり方や兵制など、戦闘のシステムを変えたかも知れない。そこには破壊の後の創造があった。しかしこの車懸りの陣について言えば、そこには徹底的な破壊しかなかった。

包囲網を突き破って尚、破壊の円運動を続けた長尾勢は、台風が家屋を押しつぶすように弾正の本営を倒壊させた。今や死の覚悟で表情を引き攣らせた長尾勢が雪崩れ込み、弾正が悠々と酒を嗜んでいた本営も、足の踏み場もない有様だ。

「おのれえいっ、退くなあっ、戦えいっ!あやつらは手負いやないかいっ」

弾正自身もついに馬に乗り、態勢を整えるべく叫んで回ったが、一旦退くことを覚えてしまった流れは二度と鎮まらない。一の谷合戦のときの平家と同じだ。虎千代たちの命を賭けた猛攻がついに大勢に本能的な死の恐怖を与えたのだ。

この頃、真っ白な雲に覆われた空からは、雨が降った。

白く濁った変にぬるい雨だ。

降り続く雨は強い風を孕み、春が来る前触れのような低気圧の嵐になったのだが、突風とともに吹きつける雨粒が追い立てられる松永勢の混乱をさらに深めたことは、言うまでもない。逃げ惑う兵たちにぬかるむ足場は、まさに踏んだり蹴ったりの追い討ちだ。

陥落した本営のそこかしこには、泥まみれの鎧や兜が討ち棄てにされた死体とともに散乱し、目も当てられない惨状だ。怪我を負ったまま泥の中で呻いている者も多く、中には気づかずに味方の馬に踏み殺されると言う無惨な最期を迎える者も少なくなかった。

時刻はまだ、正午を回ったほどのはずだ。しかしあまりにも目まぐるしくも変化し続けた戦況のために、恐ろしく長い時間が経ったように、僕には思えていた。冷たい空気と温かい空気がぶつかり合い、ぬるまった雨はしとどに身体を濡らし続けた。

「とくと、御覧なさいな」

僕の傍らでつぶやく贄姫も濡れ続けていた。そうして、崩壊していく本営を僕とともに、雨露に濡れた抜き身を下げて眺めていたのだ。

「ふふ、これぞまさしくいくさ場ではありませんか」

「判らないな」

思わず僕は言った。言わずにはいられなかった。

「さっきから、どうしてそんなに機嫌がいいんだ?」

「機嫌が良うて悪いことでも?」

贄姫の声は不気味に弾んでいる。僕は顔をしかめた。

「だって」

すでに大分前に、弾正はここにいない。松永勢と思しき兵たちの姿を見かけることも少なくなった。もはやここにいるのは、逃げ遅れた足軽どもか、負傷者に止めを刺して歩く長尾勢かしかいない。弾正たちの敗走は火を見るより明らかなのだ。

「何度も申しておりますでしょう。弾正殿は弾正殿、兄上は兄上、そしてわらわはわらわ。それぞれいくさの眼目が違うのです」

「そんなに虎千代と決着がつけたいの?」

「ええ、それも、此度こそは誰も文句のつけようのない形で」

この悲惨すぎる戦場をむしろ自慢げにもっとよく見ろ、と言うように、贄姫は微笑を含んで肩をそびやかす。

「あの虎姫さまと決着をつけるに、これほど相応しき場所がありましょうや」

あまりに恍惚としたその答え方に僕は、ぞくりとした。

松永弾正、血震丸、そして贄姫。

僕が出会った中で一番いびつに狂っていたのは、やはりこの贄姫だ。

「本当は誰でも良かったのですけど、ともかく、あなたにはとくと見届けて頂きませんと。我ら二人が、刃を取って殺し合うのを」

熱に浮かされたような瞳で、贄姫は僕を見つめた。この女の表情は虎千代と殺し合いをすると言うときだけ、潤いを帯びて輝くのかそこに毒々しくも美しい南洋の食虫花が花開いたようだ。

「虎千代と自分の殺し合いを僕に見せたい?」

「ええ、あなたにぜひ」

「なぜ」

愕然とする答えを予想しながらも僕は反問せざるを得なかった。

「わらわにも判りませぬ。なぜでしょうか」

ふふ、と贄姫は妖しい含み笑いを漏らして、

「実を言うとあなたにも中々興味が湧いてきたのですよ。兄のことといい、弾正殿のことといい、あなたは、ソラゴトビトなのに戦場を見ることが出来る男のようですから。あなたには十分、見る資格がありますし、見ごたえもありましょう」

「自分の大切な人間と、お前が刀を取って殺しあうことが?」

当然のように贄姫は頷いた。

「狂ってる」

どこまで、この女はいかれてるんだ。

「光栄です」

僕の罵倒を贄姫は賛辞と受け取ったようだ。

「さて、もっと佳き場所を探しましょうか。こう言ういくさ場は好きですが、ここでは足の踏み場もありませぬからね」

抗弁はこれ以上許さないと言うように、贄姫は刃を突きつけた。

「ゆきましょう。虎姫さまの屍を埋めるに相応しき場所へ」


贄姫は狂っている。

初めからそう思っていたにしても、その狂気は何物にも揺るがすことの出来ない、静かでいて強靭な意志だ。それは、やはり誰にも理解出来そうにない範疇に達している。

しかし不幸中の幸いと言うべきか、この崩壊のさなかに僕は、この不可解な鬼姫に救われていた。残忍非道の戦場で丸腰の素人がここに立ち尽くしていられるのは、いぜん、贄姫が僕を人質として守ってくれているからだった。

今また、ああやって確信したがこの贄姫の目的はどこまでも純粋に虎千代との斬り合いなのだ。うかつには安心出来ないとは言え、現時点に限って言えば僕にとって贄姫はそう危険な存在ではなくなっていた。贄姫にしてみれば、僕のことなどここで虎千代と戦うための人質以外には特にどうでも良かったのかも知れないが。

それから会話のないまま、僕は贄姫がふらふらと戦場を闊歩する後についていった。

雨に濡れ、足の踏み場もないぬかるみをかきわけながら贄姫はそぞろ歩く。時々散乱した荷物の中から腰兵糧の余りなどを拾いわけ、死にかけて呻いている傷兵に無造作にとどめを刺す。その贄姫に僕は見えない糸で拘束されているかのように、付き従った。

この惨状で僕はぼんやりと降りしきる雨の音を聞いていた。

ノイズのようだ。雨音が、戦場で疲弊した僕の感覚をブランクで紛らわそうとするかのように、何もかもを押し流していく。

(僕は何をしているんだろう)

ふとそう思ったとき、僕は、はっとした。

虎千代。

僕はあいつを捜してるんだった。あいつはどこにいるんだろう。こんなひどい場所のどこで、今、何をしているんだろう。

僕は思わず天を仰いだ。

空はいぜん、分厚い雲に覆われていて先が見えない。西の空がほの明るく感じられたが、太陽はその姿を見せず、ぼんやりとした明かりが広がるだけだ。

贄姫は刀で破れかけの幡幕を引き裂き、遺骸の山を踏み越えてどんどんと奥へ進んでいった。白い幕で区切られた本営の跡は、どこまでも続き、出口など見えそうにない。さっきまでの情景が嘘のようにそこには人気はなく、時折思い出したように武具が散乱しているのが見えるだけだった。

やがて僕たちは、少し広い場所に出ることが出来た。そこは弾正が昨晩、血震丸たちを集めて軍議を開いた場所と思われた。弾正が俯瞰図を乗せていた大きな卓は、そのままにあった。軍議に使った図面がそこにはまだ乗っていて、倒された駒が滅茶苦茶に氾濫していた。それはちょうど、車懸りの陣で混乱の極に陥れられた松永勢の現状を示しているように見えた。

「ここが良いでしょうか」

贄姫は言うと、その卓を乱暴に蹴飛ばした。背後にある大きな蔦紋の幕も斬り破り、要らないものをそこにすべて押しのけると、そこには斬り合うのに十分な広場が出来上がった。確かにここでなら、誰も邪魔をしはしない。

だがそう都合良く、虎千代がここへ来るとは思えない。そもそも、あいつは軍勢を率いているのだ。贄姫が望む、一人のはずがない。

と、思ったときだ。

僕たちが入ってきた口の辺りで、馬の蹄の音がし、人の来る気配が立った。馬は走る音ではない。騎手は下馬して、馬の轡を曳いているのかも知れない。

贄姫はその間も淡々として、戦場を作る作業に興じている。

やがて入口の幔幕がはねのけられた。

(まさか)

するとそこに現れたのは、やはり虎千代だった。

なぜか、たったの一騎だ。馬から降り、月毛の白馬の手綱を曳いていた。

「とっ、虎千代、どうしてここが?」

虎千代は僕を一瞥したが、贄姫からは注意を反らさない。

「さすが」

と言う贄姫は、すでに虎千代が来るのを予感していたようだ。

「よう来てくれました」

「あれほど判り易く、死骸をばら蒔かれればな」

そうか。贄姫は負傷兵や逃亡者に、とどめを刺しつつここまで来た。虎千代はそれを追ってここまでやってきたと言うわけだ。

「あの刺し傷、思い出したくもなきことを思い出させる」

激情を殺してか、虎千代は淡々とした口調で言った。

「栃尾城のこと。あれも実に佳き戦場でした」

恍惚と言うと、贄姫は首をすくめる。

「そして此度のいくさも。悔しいが、ここは認めざるを得ませぬわね。これほどまでに美々しきいくさの景を創り上げるは、貴女を置いて他ないと」

「いくさが美々しきものとは、一度として思うたことはない。ただ得難きは、生へ向かわんと奔る意志だ。さればこそ、我は奮うて兵を率い立つまでのこと」

「なんと申し繕おうと、結果は同じこと。殺すために働く。それがいくさ場なのですわ。貴女ほどのものがそれをお判り出ないはずがありませぬでしょう?」

虎千代は不興げに鼻を鳴らした。

「あの、円の突撃陣形こそ美しゅうござりました。まるで季節外れの野立(のだ)て(嵐)のごと狂うていて荒々しく。敵ながらわらわも昂りましたよ」

「相も変わらず救い難いな。おのれが昂ぶるは、人の血肉(けつにく)を浴びるときだけであろう。もはや敵も味方も区別なくな。つくづくと始末に負えぬいくさ武者に成り果てたることよ」

と、虎千代は、贄姫を刺すような目つきで睨みつけた。

「お前を生み出したは、我よ。戦場の魔物、今こそ息の根を止めん」

「ふふ、その意気です」

虎千代の殺気を、贄姫は挑むような目つきで受け止める。

「人質をとった甲斐がありました。まさか、そこまで我が意を汲んで頂けるとは」

図らずも、自分の意図通りことが運んだことを喜ぶかのように贄姫は、唇を綻ばせた。

「人質は返してもらうぞ」

「ええ、どうぞご自由に」

とは言え、贄姫がどう出てくるかは判らない。虎千代は贄姫から目を離さず歩くと、今度は僕のところまで来た。

「遅くなって済まなかった」

「うん、ありがとう」

ここへ来て、ありがとう、って。僕は首を振ったが、それ以外の気の利いた言葉が出てこなかった。不思議だった。一時はもう二度と会えないと思っていた虎千代に、再び生きて会うことが出来たのに。

「あっ、ありがとうなどと。先に言うな。そっ、そんなこと」

虎千代は頬を膨らませてみせると、僕の手をとった。

「それにな、それは、何よりわたしが言いたかったことぞ。もしお前がいなかったら、わたしはここへ来ることなぞ出来なかっただろう。お前がいたからこそ、死力を尽くせたのだぞっ」

確かに、相手は倍近い軍勢だった。虎千代は最後まで正面衝突の危険性を懸念していた。あの局面で再び攻撃に賭けるのはそれこそ自殺行為すれすれ、危急の一手だった。僕は自分の手を握る虎千代の手の温かさをもう一度確かめた。こんなに小さな手で。血路をこじ開けてまで、虎千代は僕を救い出そうとしてくれたのだ。

「必ず、来てくれると思ってたよ。だから、本当にありがとう。信じてた」

「ううっ、礼には及ばぬと言うておろうが。わたしは、わたしが来たくてここへ来たのだからな」

だって、と僕の手を握りながら虎千代は言う。

「もっ、も、もう一度何があっても、真人に、会いたかったから」

そこまで言うと何かに気づいたようにはっとして虎千代は、一気に顔を赤くした。

「こっ、こんなところで、なっ、なな何を言わせるか」

虎千代はしどろもどろになっている。この様子を贄姫が見ているのだ。正直、敵前でする話じゃないじゃないか。でもこれだけは、僕も言ってあげたかった。

「僕も、もう一回虎千代に会いたかったよ。どんなことがあっても、必ず生きて」

忘れてはいない。僕は僕の命だけじゃなく、この戦場で虎千代を生かすためにこそ、あえて従軍したのだ。

「月毛の手綱を、取ってくれ」

と、虎千代は僕に馬の手綱を曳かせた。

「この陣の入口辺りで、柿崎和泉が軍勢を整えている。そう長くない時間で、背後の血震丸たちが迫ってくるだろう。おのれは先んじてこの馬で駆けるべし」

「それは…万一のときのため?」

無言で虎千代は頷いた。つまりはもし自分が贄姫に斬られたときに、僕が無事逃げおおせることを考えて虎千代は言っているのだろう。そこまでの覚悟で贄姫と、虎千代は決着をつける気なのだ。

でもだ。

「だめだ。僕もここに残る」

「まっ、真人。うううっ、おのれは。この期に及んでかような我がままをっ」

顔を真っ赤にして虎千代は怒ったが、そこは譲れるはずがない。だって、

「僕たちは生きて戻るんだ。そのはずじゃないか」

虎千代の言葉を遮るようにして、僕は言った。

「斃(たお)してこいよ、贄姫を。僕はここで見てる。虎千代が生き残るのを」

「真人…」

戸惑うような目つきを虎千代はした。でも、そんな彼女の傍にいて、信じてやる。相も変わらず僕に出来るのはそんなことしかないのだ。

「我がままだったらお互い様だろ。僕だって、僕がしたくてやってるんだ。絶対に二人で戻る。僕はそれを見届ける。いいだろ?」

「…分かった」

虎千代の瞳に、陽が輝くように何かが灯ったのはそのときだ。

「すぐに片をつける。真人はそこで見ていてくれ」

無言で僕は頷いた。

「お話は済みまして?そろそろ始めたいのですけど」

うんざりしたようにため息をつくと、肩をすくめた贄姫に向かって虎千代は言った。

「すぐ、引導を渡してやる」


まるでいくさ場から生まれたような女武者が、そこに二人。

廃墟と化した本営跡が最期の殺し合いの場所になりそうだ。その二人が二人とも、兜はつけずに具足姿のまま、得物は腰の両刀のみ。

ゆったりと間合いを取ると、贄姫は抜き身を構えた。大きく身体を開き、片手の自在に構えた刀身に左手を寄せるように添え、その大きさで相手を威圧するかのような変則の上段だ。対する虎千代は腰の小豆長光の柄に右拳を乗せると、かすかに腰を落として一気に抜き打ちをかける姿勢だ。

二人は互いに違う方向から一つの円を描こうとするように、相手の初撃をうかがう。すでに一撃必殺の殺し合いが始まっている。虎千代が贄姫の機先を制して、最速の一撃で仕留めるか、贄姫が虎千代の居合の仕掛けの起こりを狙うか。初手から、見ている方にもびりびりと緊張感の伝わる静かな殺し合いが幕を開けた。

たった一人の傍観者である僕は息を呑んで、二人の一足一刀の間合いの取り合いを見守る。

やや体格で勝るとは言え、二人はともに女性だ。重たい甲冑で身を守りつつ、自重で押し切る介者剣法(かいしゃけんぽう)よりも、その攻撃の型は素早さと身軽さを活かしつつ、最短で急所を狙う、精度が肝の際どい剣術だ。その有り様は甲冑剣術を踏襲しながらも、防具なしの素肌で斬り合う幕末の人斬り剣に近い。

幕末、実際の斬り合いを経験した薩摩の古老の経験談に謂う。真剣をもって人と斬り合うときには、お互いの鼻息が掛かるほど近い間合いに入らなければ、相手を仕留めることは出来ないのだそうだ。

そもそもそうした真剣の斬り合いでは、相手との距離は自分が思ったより遠くなりがちだと言う。勇気のあるなしよりこれは人間の生物としての、刃物への生理的な反応だろう。下手をすれば、自分の身体が切断されるような事態なのだ。事実、そうした幕末の剣士たちも、自分が傷を負って無我夢中の状態で気がついたら相手を斬り殺していたくらいの感覚なのだと言う。

その点、息をするように人を殺す経験を積み重ねた贄姫の感覚は異常と言う他ない。強気の上段で虎千代を圧するように、間合いを侵してくる。それは放胆すぎる死への誘いだ。贄姫は虎千代を確実に殺したいがために、自分の命すらも平気で晒しものにする。他人の命ばかりでなく、贄姫にとっては自分の命すら、大切ではないのだ。

居合いは一撃必殺ながら、抜いて外せば相手に大きな隙を許すことになる。目で仕掛けながらも、虎千代は容易に贄姫に仕掛けを放てない。

しかし均衡はふいに破られた。

仕掛けたのは、贄姫の方だ。背後に少し退いた虎千代に対して贄姫は十分に歩幅を取ると、大上段から伸びのある一撃で追随してきた。

一瞬でこれに反応した虎千代もさすがだった。小幅に退いてから勢いをつけて放った一撃は、下から贄姫の頸を狙う必殺の一撃だった。贄姫がこれを防ぐにしても、左の出籠手を犠牲にするしかない。虎千代の居合の威力なら左の手首くらい軽々と斬り飛ばしてしまうだろう。

しかし、贄姫の反応も並みではない。

ギン、と言う鋭い音を僕は訊いた。これは金属音だ。虎千代の剣は、贄姫の具足に達していない。

致命の一撃を、贄姫は剣の柄頭で受けた。通常、菱巻(ひしま)きで拵えた日本刀の柄には、柄巻の糸を束ねる金属製の柄頭が装着されている。贄姫はこれで虎千代の居合を際どくも受けたのだ。

間髪入れず、飛びあがった贄姫の左の蹴足(けそく)が虎千代を突き離す。瞬間的に後ろに飛んで衝撃を殺した虎千代はその勢いで飛び下がって剣を構え直した。そこに、片手に剣を携えた贄姫が殺到する。

息もつかせぬ斬撃が、虎千代を襲った。変幻自在の片手剣に蹴りや甲拳を組み合わせた贄姫の剣は、容赦なく速い。態勢を整え切れていない虎千代も防ぐので精いっぱいだ。格闘技を織り込みつつ片手で剣を扱うのは、並みの膂力では出来ない。しなやかでいて、全身、ばねのような贄姫の女性離れした筋力の賜物だ。

「せえっ」

鍔ぜりすると見せて、密着状態から回しこんだ右の肘が虎千代のこめかみを打つ。軽い脳しんとうに襲われたか、虎千代の身体がぐらつく。その頭上を狙って左足を踏みこみざまの逆袈裟が虎千代に降りかかった。その剣を辛うじて虎千代は返す刀で弾き返した。

そこで二人は再び、間合いを取った。

「不甲斐ない」

贄姫は目を剥いて虎千代を嘲笑した。

「これでは、殺しても面白くありませぬ」

間違いなく贄姫の殺人術はさらに磨かれている。

この攻防で一方的に傷を負ったのは言うまでもなく、虎千代だった。さっきの刃は避けきれずに斬りこまれ、虎千代は左手の具足の一部を斬り取られた。むしり取られたその痕から血が滲んでいる。

対して虎千代は、いつもと比べると明らかに動きに精彩を欠いている。

(おかしい)

見ていて僕は、はっとした。そう言えば、さっきの贄姫との馬上の撃ち合いで十字槍に刺され、虎千代は足に傷を負っていたのだ。

虎千代の剣の最大の武器。

類稀な機動力が、それによって損なわれていたとしたら。

「虎千代っ」

「案ずるな」

駆け寄ろうとする僕を、虎千代は目で制した。

「だって虎千代、足が…」

僕は虎千代の足を見た。破れた臑当(すねあ)てに血が滲んでいる。これは、今の怪我じゃない。槍傷が開き出し、虎千代の動きを制限し出しているのだ。

「大丈夫だ。これしきの傷、いくさ場には付きものよ」

虎千代は少し息の下で、言った。

「斃してこい、そう言ったであろう。信じてくれているなら、そこで見ていてくれ」

額に脂汗を浮かべつつ、虎千代は贄姫に再び相対した。

「我としたことが、習い覚えた剣術に染まり過ぎたわ」

贄姫は目を見開くと、小首を傾げた。

「今さら何を。これは殺し合い、そう言うたはずではありませぬか」

「そうであったな」

贄姫の必殺の上段に、虎千代は懲りずに脇構えの斬り上げで挑む。

これは拙(まず)い。

実質的には、居合で贄姫の真っ向袈裟掛けに対抗しようとした、さっきの展開と同じだ。しかも、鞘走りを利用する居合と違い、反応速度は必然的に鈍ることになる。

機先を制した贄姫の飛びあがりざまの蹴りが、虎千代の顔面を捉えようとした刹那だ。振り上げられた贄姫の左足を虎千代は、両手で抱え込むようにして掴んだのだ。なんとこのとき放胆にも剣は棄てている。

「あっ」

一瞬で空中で両足を絡めると、虎千代は贄姫と倒れ込んだ。そのまま足腰をひねって、重力を利用した逆技(ぎゃくわざ)(関節技のこと)を極めた。

剣術の世界ではありえない。しかし、ここは戦場だ。

「あああっ」

激痛に呻く贄姫の叫び声が木魂した。今の一瞬で虎千代は贄姫の足可動部に決定的なダメージを与えたのだ。

「はっ、離せっ」

贄姫が剣を振って虎千代を撃とうとしたときには、虎千代は技を解いている。タップを待つ現代の格闘技とは違い、今のは破壊が目的の戦場技だ。組んだ瞬間に壊してしまえば、長い間技をかけている必要はないのだ。

「やってくれましたわねっ」

どうにか立ち上がったが、贄姫は足先をぶらつかせている。あの足はもう使い物にならないだろう。これで、贄姫もまたその機動力を殺がれたのだ。

「何を憤るか」

虎千代は自分の傷を負った足を叩くと、贄姫に言った。

「これでこそ、殺し合いであろう」

「でしたわね」

ほぼ同じ傷を負った二人は、不敵に笑みをかわしあった。

そしてそこから剣を構えて、再三の斬り合いを始めたのだ。

見るだに凄まじい、これこそ容赦なしの殺し合いだ。

二人とも傷を負い、壊しあっている。しかし傷を負うごとに、二人の殺気は凄愴に冴えていく。

決着は果てしなく、先のことに思えた。見ている僕にも、この死闘の果てが想像できない。一瞬先に何が起こるか、際ど過ぎる攻防の連続だった。何しろ二人ともどちらも、互いの間合いぎりぎりの中に踏みとどまり、退くことがないのだ。

二人とも。刃で斬られて死ぬのが、怖くないのか。

もはや僕が思うような、そんな甘っちょろい次元をはるかに超えている。

精神的にも物理的にも、これは文字通りの消耗戦だった。

何合目かの斬り合いの末のことだ。

虎千代の横薙ぎの剣が、繰り出した贄姫の剣をついに横合いから弾き飛ばした。贄姫の手から剣は完全に離れている。数度の空振りや鍔迫り合いで、極度に握力が消耗していたのだろう。

「拾え」

残心の姿勢のまま、虎千代は言った。

「情けをおかけになる気ですか」

贄姫は鼻の頭を歪めると怒りを露わにした。

「お前にかける情けはない」

ふん、と鼻を鳴らして虎千代は応じた。

「丸腰のおのれを斬ったとて、我が憤懣(ふんまん)は晴れぬ」

「お甘いこと」

贄姫はこの期に及んで挑発したが虎千代は剣を構えたまま、動く気配を見せない。その様子をしばし見ていたが、虎千代が手を出さないと知ると、贄姫は吹っ飛んだ剣を拾いに行った。

再びの仕切り直しだ。

さっきのは卑怯でも何でもない。虎千代はなぜ斬りに行かなかったのだ。

そのとき僕は、二人がここへ来てようやくその動きを止めたことに気がついた。贄姫が背を向けると、虎千代が大きく呼吸をついたのだ。それで判った。贄姫だけではなく、恐らくは彼女も疲労が極に達していたのだろう。すでに虎千代も動くに動けなかったのだ。

しとしとと濡れる雨は、まだ続いていた。空気は冷えこみ、体力の消耗を助長する。激しく動いた二人の身体からは心なしか湯気が立っているように見えた。

「どれくらい経った」

ぽつんと、虎千代がつぶやくように訊ねた。僕に訊いているのだ。あっ、と気づいた僕はあわてて、二人がどれくらい斬り合っていたのか考えた。恐ろしく濃密な時間が過ぎた気がしたが、それでもこれで十五分ほど、経ったところではないか。

「まずいな」

と、虎千代は眉をひそめる。柿崎景家に言われた時間が過ぎつつあるのだろう。

「大分経ちましたわね」

贄姫もそれと察しているようだ。

「そろそろ、兄の軍勢もここへ来ましょうか」

そのとき、僕の背後にもう一つの気配が立った。どこにいて何をしていたのか、恐らくは黒姫だろう。黒姫のあわてた声からも、事態は危急のようだ。

『とっ、虎さま、こんなところで何をやってるですかっ。血震丸の軍勢がこちらへ迫っておりますですよっ』

「黒姫か、すまぬな」

どこともなく降る黒姫の声に、虎千代は応えた。

『こっ、このいかれ女は我ら軒猿衆で絡め捕りますですよ。虎さまはすぐに、指揮に戻って下さいですよおっ』

「こやつを、お前らに任せるわけにはいかぬ。此度こそはこの勝負流せぬのよ」

『そっ、そんな我がままをっ…はあああっ、今ので惚れ直しましたですよお…いやいや、そうじゃなくって、わたくしの言うことも聞いて下さいですよ虎さまあっ』

虎千代は断固としてかぶりを振った。

「真人との約束だ。あやつを斃(たお)してより我らは戻らねばならぬ」

虎千代は確かめるように僕を見た。僕はその虎千代に頷き返してみせた。

「贄姫よ」

そして虎千代は、剣を拾った贄姫に声をかけた。

「ここでこそ我らの黒白(こくびゃく)をつけようぞ」


ここまで来れば黒姫も僕も黙って、勝敗の行方を見守るしかなかった。

虎千代が言う、ここが黒白のつけどころだ。

最後の一合に備えて虎千代は刀の目釘を検めた。日本刀は柄に刀身をはめ込む構造上、使っていると、衝撃で刀身を止める目釘が緩み、柄とのずれを生じることがある。最悪の場合そこから刀身がすっぽ抜けてしまうことがあるため、折に触れて確かめる必要があるのだ。いくら名刀でも、手入れが悪ければ使用者の命取りとなる。

たっぷりと時間をかけて剣を手入れした二人は、互いに鞘に剣を納めたまま、真っ向から向かい合う。いちかばちか抜刀術の撃ち合いをしようと言うのだ。

「やはり考えることは、同じようだな」

虎千代は苦笑した。一気に片をつけるとしたら、まずそれしかない。このまま体力の消耗戦をしているよりは、はるかにましだ。

「むざむざ兄の下には、いかせませぬ」

と言うが、贄姫の声に無用の気負いはない。

「そろそろ御首級(みしるし)頂けましょうや」

わずかに腰を沈めた、二人は静寂の殺し合いに立ち戻った。

虎千代の居合いは、右肩を押しだした心持の前傾姿勢だ。戦国の抜刀術の間合いは広く、しかも刃が狙う部位は低い。甲冑戦闘においては本来、抜刀術は鎧の隙の股間や腿の大動脈を斬り上げる技なのだ。

もっとも後代にその姿を残しているのは、薩摩藩に伝わる薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)の居合い斬りだろう。幕末、有馬藤太(ありまとうた)と言う名手は、大名行列を横切ったイギリス人商人をこの居合斬りで仕留めている。いわゆる生麦事件(なまむぎじけん)として歴史教科書にも紹介されている事件がそれだ。このとき有馬が使ったのは鎧を着た武者の睾丸から顎先を一気に斬り上げる、戦国時代さながらの居合いだったと言う。殺害された英人は、なんと馬上だった。

後に足軽を鉄砲ごと斬殺したと言う虎千代の腕は無論、それに劣らない。小豆長光を携えての一撃ならば、極まれば甲冑ごと贄姫を斬殺するはずだ。その様は、身を低くして獲物を狙うネコ科の肉食獣を思わせる。雨に濡れて貼りついた前髪の下で光る瞳に、強い意志が宿っていた。

対する贄姫は心なしか立ち上がり、その虎千代を斬り伏せる姿勢を取る。一気に間合いを潰そうと肉薄する虎千代を浴びせ斬りで迎え撃つ構えだ。無論、先に放っても贄姫の刀法の命である、全身のばねを存分に活かす居合いが放てる。間合いの点では腕の長さや体格でわずかに、贄姫が勝っていた。

しかし両者とも、疲労が極に達している。緊張感を保って姿勢を取るのさえ、もはややっとの状態だ。次の一撃が最期になるはずだと言うことは、間違いがない。

二人の刃圏のぎりぎり、離れた距離は六メートルほどと見られた。

さっき以上に、窒息しそうな緊張感だ。

極限と言っていい。

見守る僕の喉元にも、酸っぱいものがせり上がってくる。

「真人さんっ、なぜ虎さまを止めてくれないですか…」

黒姫が消沈した様子で姿を現したのにも、しばし気づかないほどだ。

「黒姫だめだ」

虎千代のもとに行こうとする彼女を僕は止めた。これは誰にももはや止められない。黙って見守るしかないのだ。

「い、嫌です。離してくださいですよ。虎さまにもしものことがあったら…わたくし、生きていけないです。どうして真人さんは堪えられるですか。このままだとわたくしっ」

と、黒姫は見ていられないと言うようにかぶりを振って僕にすがりつく。

「弱音を吐くなよ、黒姫」

僕はいつもと打って変わって頼りない表情をしている黒姫に言った。

「虎千代は勝つ」

「ほっ、本当ですかっ」

泣きはらした目をした黒姫は僕を見つめて言った。

「お前は、あいつの家来だろ。虎千代を信じてここまで来たんだろ。ここであいつを信じてやらなくちゃ、誰が虎千代を支えてやれるんだよ」

「ううっ、真人さんみたいにわたくし強くなれないですよ」

「そんなことないだろ」

やっぱり黒姫も女の子だ。虎千代の決意も信じてやりたいのだが、自分の心の揺れが大きすぎるのだろう。うるうる瞳に涙を滲ませて、その場に泣き崩れそうな黒姫を僕は支えてやった。

「ほら、しっかりしろよ。いつもの黒姫らしくないじゃないか」

「えくっ…えぐっ、虎さまが殺されたら、わたくし真人さんの咽喉を突いてそれから自害しますです…」

やっぱり黒姫は黒姫のようだ。ちゃっかり自分の殉死の道連れに僕をカウントしていることが判明したが、さすがにぼろぼろの虎千代が心配なのは分かった。

ところで、二人の睨み合いはその間も続いている。お互いこれ以上ない致命傷のチャンスを狙い合っているのだ。すでに二分ほどがいたずらに消費された。

「時間がない、はずではありませんでしたか?」

ぼそりと、贄姫が虎千代を挑発する。このままだと埒が明かないと思ったのだろう。

「で、あったな」

虎千代はうかつに誘いに乗らないと言うように、気のない声で首を振った。

「分かった。そろそろゆく」

ふわり、と虎千代の身体が浮き上がるように動き出したそのときだ。

同時に間合いを侵して、贄姫も虎千代に肉薄してくる。

奇しくも二人、同じタイミングで相手の喉元に入り込んだ。

踏み出せばそこが刃圏と言う一足一刀の間合いは、苦もなく破られる。

仕掛けたのは、贄姫だ。

腰をひねり、一気に剣を鞘走らせる。その速すぎる反応に釣られるように、虎千代も柄の鯉口を切った。

しかしそれは、贄姫の罠だった。

贄姫は刀を鞘から引き抜くと。左手を旋回させ、身体ごと遠心力を使い鞘を投げつけた。

虎千代の不幸は、その投げ鞘に思わず反応してしまったことだ。

飛んできた鞘を受け流せばよいものを、虎千代の居合いは不覚にもそれを斬り払ってしまった。

輪切りにされた鞘が弾け飛ぶ。

虎千代はあっけにとられた表情でその光景に直面する。

(しまった)

剣を抜き払った、贄姫の右手は自由だ。

(殺(と)った)

と、贄姫は確信した。そのまま虎千代の無防備になった頸動脈に、右の片手剣を殴りつけるように斬り下ろしたのだ。

何とかとっさに左半身に虎千代は身体を開いた。ものの、刃は左の肩鰭を割り、そのまま胴丸まで斬り下げた。致命傷は辛うじて避けたものの、斬撃の衝撃で虎千代の身体は大きく傾いだ。すでに最終局面だ。今また、二人の間合いはこれ以上なく近づいている。贄姫はそのまま抑えつけ、体格差に物を言わせて虎千代の首を掻く気でいた。間合いをさらに潰すことで、長刀を保持した虎千代の攻撃を完全に殺そうと考えたのだ。

しかし、その刹那だ。

再び虎千代は奇妙な動きを再開した。反撃のための剣を振らず、なんと小豆長光を抱きかかえるように、刀身を胸に抱え込んだのだ。あくまで身体的な防御反応がそうさせたかに見えたが、やはりそれは違っていた。すぐにぴんと来た。

もしかしたらあの構えは。恐らく僕だけが、虎千代の意図に気づいたはずだ。

最後の力を振り絞って、虎千代は跳んだ。そうだ。あれはかささぎが得意とした垂直方向の抜刀術の変種。密着した間合いから全身のばねだけで解き放つ必殺の一撃だ。虎千代は最後の一撃をその技に賭けたのだ。そしてそれは奇しくも贄姫の意表を突いた。

突然、足もとを発った天掃く燕に贄姫は、驚愕の目を見開く。

あわてて右手の刃で防御しようとするも、初見の技に愕いたせいか、反応が遅れた。そのときには、小豆長光の刃は贄姫の身体へ入り込んでいた。

二人の身体が重なり合う。ほんの一瞬だ。

虎千代の身体が消え、後には贄姫の姿が残る。虎千代は力尽きて視界のはるか向こうに、倒れ伏していた。もはや立ち上がる気力もない。

硬直した贄姫の後ろ姿は棒立ちのままだった。

贄姫がかすかに身体をぶらしたかと思えるその瞬間だ。

その身体からぼだっ、と重たい音を立てて何かが落ちた。

それは剣を持ったまま、切断された贄姫の右手首だった。


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