鶴翼を喰い破れ、全滅の危機に、ついに正体を現す車懸りの陣!?
「うっ、嘘やと言わぬか」
さすがの弾正も声が引き攣っていた。
「あの濃霧の中を、軍勢が動けるはずがあるか」
「しっ、しかし敵襲は紛れもなき事実にござりますれば」
岩豊によれば、襲撃に気づいたのは霧が晴れた頃と言う。
本陣右翼。
「出し抜けに大勢意気を上がり、武者押しの声湧きたち」
鉄製の簡素な筋兜、胴丸具足に、大太刀を引き寄せた軍勢が押し寄せ、朝靄に混乱する弾正の本営に容赦なく雪崩れ込んできた。目を血走らせた死兵とも言うべき越後の精兵たちの凄まじさに、たちまち弾正たちの軍勢は噛み砕かれた。降って湧いた攻撃の凄まじさに、松永勢は相手が敵勢か否かも判らぬまま、なすすべもなく潰走しかけている。
「そっ、それが越後の者どもと間違いはないのか」
息を呑んで岩豊は頷く。
「あれは音に訊く紛れもなき長尾家の突撃旗」
浮足立って騒ぐ陣中に、突如白くはためく旗が一流。
白布に一字、大書された文字は流れるような『龍』の一字があった。
「そ、それは」
紛れもなく、山中に放置された野陣から、行方不明になっていた虎千代の旗印だ。
間違いない。
虎千代がついに弾正の本営を捉えたのだ。
確かに虎千代はやってきた。
しかしだ。
一万人の軍勢が待ち伏せの陣を構える中、虎千代たちはどうやってきたと言うのか。
「ありえん」
弾正が信じがたいのも無理はない。本陣中に忽然と現れた長尾勢は、不可解としか言いようがない。あの険しい山道を迂回し、しかも真夜中、移動することはほとんど不可能に近かったはずだ。先導の馬が足を踏み外せば、皆崖下に落ちて全滅するほどの濃霧だ。
虎千代なら恐らく、自分が先導者になって馬を操ったと思うが、もしそれをしたとするならば、あの源義経の一ノ谷合戦に匹敵する危険な作戦になる。この電撃作戦には弾正ならずとも、虚を突かれたに違いない。
「この上は致し方なし。今宵のうちに退き陣せん」
後から聞いた話だ。虎千代は直江景綱や柿崎景家にはそう命令したと言う。撤退か突撃か。僕がさらわれてから、軍議はそれほど紛糾したのだ。
「我が自儘で敵に人質を預けてしまった。大将として、これ以上の失態はない。ともかく一度退き、兵を休めさせ他日を期さん」
「姫さまよ、それでええのかよ」
景家が喰ってかかった。
「ああ、この上、お前らに無理をさせるわけにはいかぬ」
虎千代は頷いて見せたが、その顔は暗い。
「そんな面、見てわしや兵が納得すると思うかい」
虎千代は何も答えない。景家もさすがに見かねたようだ。
「大和よう、おめえも黙ってないで何か言えや」
「確かにこの状況下で進軍は困難かと」
傍らの景綱も何かを察しているのか、強いて虎千代の意見に逆らわない。
「これより朝にかけては、霧が深うなりましょう。進むも退くも、時間との勝負になりまするな。いずれ、早期のご決断こそ肝要になりまする」
「だあっ、うるせえ。そんなこたあ、分かっとるわ」
かっ、と怒りの声を上げると、景家は地団太を踏んだ。
「情けねえ。このわしが、おめおめと小僧を盗られ、敵を眼前に我らが逃亡とは」
「和泉、何事も分別よ」
沈んだ面持ちで虎千代がやっと、口を開いた。
「さっきの我は、分別を越えた振る舞いをしてしまった。自分でも、どうしてよいか判らぬままおめおめと真人を贄姫に奪われてしまった。この浮足立った心では、勝てぬ。ゆえに退こうと言うのだ」
「姫さま…」
それを言われれば気炎を上げていた景家も押し黙るしかない。
「二人とも、我が命に異存はないな」
虎千代が年を押すように言う。すると二人の名将も頷かざるを得なかった。
「…では急ぎ、撤退の準備を」
直江景綱が、その段取りを虎千代と取ろうとしたそのときだった。
「待ちなよ、旦那方」
鬼小島の声が立ち、幕をくぐって続々と軍兵が入り込んできた。みるみるうちにそこは、武装した武士たちでいっぱいになった。言うまでもなく軍議の席に、ずらずらと乗り込んできたのは、全員武装出撃の準備を整えた力士衆たちだ。
「おっ、お前ら何をしている。軍議中じゃぞ」
「これから逃げようって算段なら、するだけ無駄です」
鬼小島は拳を固め、虎千代に見せつけるように背後を振り返り言った。
「迷うことはねえですよ、お嬢。みんなもう、準備万端です。すぐ討って出ましょうぜ」
「し、しかし」
虎千代が戸惑うのも当然だった。皆、連日の戦闘で疲れ果てていた。死人も怪我人も、数えきれないほどに出ている。虎千代が撤退を考えたのも無理はないところなのだ。
「お嬢、あんたとあろうお人が、大事な小僧を盗られて黙ってんですか。それにあいつは、ただのお嬢の恋人じゃねえ。戦友じゃねえですか。ここでおれらが助けに行くのは当たり前なんですよ」
「それは…そうなのだが」
虎千代は切なげに顔を歪め、声をひそめた。
「…わたしの我がままでお前たちに苦労をかけるわけにはいかぬ」
「なに言ってんですかお嬢」
尚も逡巡する虎千代に、鬼小島は言った。
「ここにいる俺ら全員、お嬢の我がままに付き合ってここまで来たんだ。じゃ、ねえかよ、旦那方」
その声に呼応するかのように、背後の力士衆が雄叫びを上げる。柿崎景家はそれだけで大喜びだ。
「馬鹿どもが。それでこそ越後勢じゃ。わしとしたことが弱気になっておったわ」
「柿崎の旦那あっ」
景家はずかずかと鬼小島の前に立つと、大きな拳でその鉄板のような胸を突いた。
「野郎どもっ、ここは姫さまに馳走じゃ」
景家は立ち上がると、真っ先に出陣を宣言した。
「大和おっ、おのれこの上分別臭いことは言わんじゃろうな」
「当初より出撃に異存はありませぬ」
景綱は微笑を含むと、頷いて見せた。
「進むも退くも困難ゆえ、どちらにしても後は姫さまの御心次第かと思うたゆえ先はああ申したまで」
「弥太」
と、虎千代はまだためらうように、鬼小島を見た。鬼小島はそれを吹き飛ばそうとするかのように大声で笑い、
「だ、そうですよ。今さら水臭えことは言いっこなしだ」
これが越後勢なのだ。さすがに虎千代も胸にこみ上げてきたものがあったのだろう。思わずその瞳に涙が浮かんだ。
「どうせお嬢、皆を退かせた後に自分だけ出る考えだったんでしょう」
はっ、と顔を上げた虎千代に向かい、鬼小島は破顔した。
「…もう独りでは行かせませんぜ」
鬼小島は、岩のような手を虎千代の手の上に重ねた。
「さあ、さっさと小僧を救いに行きましょう」
こうして雪崩れ込んできた越後勢の数は、凡そ三千と言う。常識はずれの本陣急襲は今度こそ、松永勢の虚を突いた。
「手廻りの兵どもは無事か」
しかしさすがは弾正だ。突如出現した事態に茫然とせず、すぐに現実に立ち戻った。
「はっ、すでにこなたに集まっておりまする」
「よし、おれが自ら出る。岩豊、おのれはすぐに前線に急を伝えよ」
兜の緒を締め直し、手槍を掻き取ると、弾正は本営を出た。
「馬やっ、馬曳けえいっ、ここは何としても支えるでっ」
弾正は急ぎ、百名程度の馬廻りを率いて電発した。
渦中は、眼下で総崩れになりそうになっている自軍の中核だ。
(すごい)
弾正がいた席から僕は、その混乱のただ中を遠望していた。
そこには整然とした鶴翼が、数段にも渡って展開していたはずなのだが。
今やそれは踏み荒らされた砂絵のように、ぐちゃぐちゃに掻き乱されている。
剽悍な長尾勢に斬り立てられ、陣形はもろい輪ゴムか何かのようにたわみ続けた。
虎千代たちは本当にすぐそこだ。
文字を確認出来るほど近くに、あの『乱れ懸り龍』の突撃旗が見える。
しかしいつ、紛れ込んだものか。濃霧の影響があるとは言え、弾正たちがこれほどの接近を許してしまうとは何度考えても驚きだ。
「まあ、無理もありませぬでしょう」
僕の考えを見透かしたのか、傍らの贄姫が唐突に言った。
「この鶴翼、一見整然と見えますが、兄と弾正殿が夜を徹して配所したものですから。昨晩からの悪天候で、味方以外の軍勢が紛れ込んでいたとしても、気づく術はありませぬ。しかし見事なのは、連日の戦闘で我らよりも疲弊しているはずの長尾勢の動きです」
見ろ、と言うように贄姫は顎先を振る。
「連中が死兵なのは、軍勢を比較すれば判りますでしょう。松永勢の旗は浮足立って澄んでおりますわ。あれほどの乱戦で軍勢が一糸乱れず戦うはさすが長尾勢」
軍学では、旗が澄む、と言う。いわゆる劣勢になっている兵たちは攻撃されるたびに隊列が乱れ浮足立っているので、背中に挿した旗指物の動きがそれと目立つのだろう。確かにこうして遠望していても、この戦場で虎千代の兵たちと松永勢を区別するのは容易だ。
「あれこそは何より、先代為景公に薫陶を受けた将士の精強さこそ、世に誉れ高きと言わねばなりません」
贄姫が素直にそう褒めたのは、長尾勢に従軍した経験から来るものだろう。それにしても、自分の敵をあっさり褒める贄姫の神経も分からない。
「敵を褒めるんだな」
思わず僕が皮肉ると、贄姫は肩をすくめ、
「事実を申しているばかりです。弾正殿が自ら支えに出ましたが、この分では、援軍が来るまでに支えきれるかどうか」
と、何か試そうとするかのように僕を見上げ、
「兄上には悪いですが、ここはわらわの勘が頼りになりましたね。虎姫さまは早々此方まで来るはず。さてこうしてはいられませぬ」
贄姫は早急に自分の兵をまとめると、出撃の準備にかかった。朱柄の十字槍を駆った贄姫は馬上、三十名の兵を集め、状況を把握させる。そのさなかにも、混乱の悲鳴と武者押しのどよめきはさらに強くなっている。
「ここからは向こうも我らも、時ばかりが勝負です」
敵が本陣を潰すか、前線の救援が敵を押し崩すか。
どちらが早いか。
もはや理屈はない。
虎千代たちも弾正たちも命がけだ。
「すでに死したと思い、かかりませい」
贄姫は金属質の声を張り上げた。
それにしても、虎千代はどこにいるのだろう。
まるで巨大な肉食獣に呑みこまれたかのような不穏などよめきに包まれ、何もかもが荒れ狂っている。
殺しあう人々が作り出す不定形のうねりの中で、僕は突撃旗を見た。奮闘する長尾勢も見た。しかしまだ、肝腎の虎千代の姿に出会ってはいない。
荒れ狂う男たちの足もとで、甲冑が千切れ飛び、折れた刀や流れ矢の残骸が散乱する。まだ息のあるものですら、倒れたまま踏み殺されるような陰惨な混乱の極だ。
贄姫は軍勢を率いて、なんの躊躇もなくそのさなかに飛び込む。
「あなたには、わらわの馬廻りにいてもらいますわよ」
贄姫は槍の穂先を僕に突きつけると、そう脅してきた。
「どこからでもあの虎姫さまに見えるように。あなたは、生餌です」
この乱戦のさなか、贄姫は僕を人質にして歩こうと言うのだ。この女に、もともと理屈は通用しない。
「ははあっ、もう堪りませぬっ」
嬌声を上げると贄姫は自ら馬体をぶち当てるようにして、乱戦の中に身体を乗り入れる。
研ぎ澄まされた十字槍が閃き、胴丸姿の雑兵たちの首を見る間に三つ、突き通した。
「虎姫さまっ、いずこにおりますかっ!黒田の贄姫が参りましたよっ」
慣れた戦場の空気を胸一杯に吸い込み、贄姫が咆哮する。この狂った鬼姫には、そもそもいくさの勝敗ですら眼中にないのだろう。凄惨な笑みを浮かべ、十字槍を振り回すと、贄姫は虎千代の名を呼び続けた。その姿はまるで、ここで虎千代と出会うことを確信しているようだった。顔に返り血を浴び、甲冑の小鰭や帷子の袖まで血で濡れそぼらせた贄姫は血と骨を掻き分け、喜々として虎千代を探し続けた。
「どこですっ、いざ殺しあいましょう」
戦場にはいぜん、突撃を示す虎千代たちの鳴り物の音が響き渡っている。そうして贄姫はついに、あの『乱れ懸り龍』の突撃旗がはためいているのを目の当たりにした。
あそこに、虎千代がいる。
ふと、そこによく肥えた月毛の白馬が乗り入れてくる。その馬上、刀を振るう小柄な武者姿。傷ついた甲冑をものともせずに入り乱れる刃の下を掻い潜っている。澄んだ色をした瞳が、戦場にはそぐわないほどに静謐に状況を見極めている。
あれは、虎千代だ。
「虎千代」
僕は思わず彼女の名を叫んだ。しかし、このどよめきの中では聞こえるはずがない。それでも声を限りに叫んだ。すると不思議なことに、虎千代がぴたりと動きをとめてこっちを振り返ったのだ。まさか。確かめるように僕はもう一度、虎千代の名前を呼んだ。虎千代は僕に気づいたのか、はっとした表情をした。なんと聞こえたのだ。この乱戦のさなか、僕の、虎千代を呼ぶ声が。
「虎千代」
僕はここだ。
虎千代は僕に応えようとした。声を上げ、駆け寄ろうとした刹那、十字槍を引っさげ血を滴らせた贄姫の馬が、視界を遮る。
「見つけましたわよっ、鬼姫さまっ」
容赦なく、贄姫は槍を繰り出す。槍の穂を振り払った虎千代の剣から火花が走り、頭蓋に沁みるような衝撃音が響き渡った。
「贄姫か」
殺気を込めた視線を虎千代は贄姫に突きつけた。
「なぜ、ここにいる?」
贄姫はすぐに応えず、馬上槍を叩きつけた。槍のけら首を剣で受け止めた虎千代は鐙を踏みこみ、馬の力を使いそれ受け流す。穂先を外された贄姫はバランスを崩しかけて馬を突っ込んだ。
「なぜとは。ここは戦場ではないですか」
馬勢を立て直すと小首を傾げ贄姫は、再び虎千代に血錆びた槍の穂先を突きつけた。
「兄に頼んで隊を分けてもろうた甲斐がありました。これほど早くに殺しあえるとは僥倖です。さあ、血肉を削り合いましょう」
贄姫は馬を責めると、虎千代の馬に迫った。片手で大きく穂先を振り上げ、虎千代を追威嚇するように大きく構えて接近する。対する虎千代は馬を翻してかわし、手綱を握る贄姫の左側の死角に入ろうと動いた。
この乱戦のさなか、思いがけず一騎討ちが始まった。
二人は輪乗りするように、互い違いに円を描くよう馬を走らせ、相手の隙をうかがう。言うまでもなく、馬上の武技においても、技量は伯仲しているようだ。
贄姫はまるで棍棒のように槍を構えている。これは馬上、虎千代を叩き伏せるためのものだ。槍の基本は叩く、と言う。当時の槍は基本、相手を所構わず叩き伏せるのに使うものと教えられるのが普通だ。突くのは、ほとんど止めを刺すときにしかしなかったとされる。急所一点を狙って突くのは技量が要る上に、狙いが外れれば大きな反撃の隙を生んでしまう。そのため、多用は避けるようなのだ。
無論、贄姫は突くことも考えている。虎千代が馬を退いて槍をかわそうとすれば、穂先は中空で変化して、刎ね上げ突きになって虎千代を襲うだろう。
馬上の運動上、虎千代は槍をうかつにかわすことは出来ない。さっきのように槍のけら首を捉えて上手く外せればいいが、そう簡単にそのきわどい一瞬を見極められるものではない。横にも広がった十字槍の刃は相手の武器を絡め取ったり、鎧に引っ掛けて馬から引きずりおろすためにも使われるのだ。
「せえいっ」
叫喚とともに、贄姫が槍を振り下ろす。虎千代は何とかこれを身体をひねってかわした。すれ違いざま、虎千代の身体を十字槍の穂先が掠めていく。十字槍の先が虎千代の左腿を傷つけ、甲冑の隙からみるみる新しい血が染み出してくる。
「くっ」
虎千代も応戦する。槍の柄を足で抑えつつ、剣は贄姫の槍を持つ右の小鰭を斬り裂き、肩から肉を削ぎ取った。
「上々です」
贄姫は歪んだ笑みを浮かべると、血が滲んだ傷を見せつけるように肩を振った。今日の贄姫はことさら、狂気に満ちている。そこから馬を駆け違い二人は数合、刀槍を交えた。激しい打突音が断続的に響き、血が飛沫く。文字通り、二人は互いの血肉を貪り合う。
「さあさあ、今日はどちらが御首級を上げましょうや」
膠着する虎千代と贄姫の戦いはすぐに、戦場の味方の目につく。
「贄姫だっ、野郎どもお嬢を守れっ」
大太刀を担いだ、鬼小島の声が奔る。
「のけえいっ」
力士衆が負傷した自分を取り巻こうとするのを、虎千代は剣を掲げ、制した。
「おのれの首は我がものぞ。誰にも譲らぬっ」
味方も思わず足を止めたほどの虎千代の咆哮に呼応するように、贄姫は血肉のこびりついた十字槍を振り上げる。
息が合ったように、二人は真っ向から同時に馬を責めた。
「はああっ」
贄姫が槍を叩きつける。
同時に振り下ろした虎千代の馬上剣は、それを的確に捉えた。
狙いは、槍の柄と穂の境、けら首だ。
きいん、と硬い金属音が空気をつんざき、辺りに鳴り響いた。
虎千代とすれ違いざま、贄姫は態勢を整え、槍を振り上げる。
その十字槍の穂先は両断され、どこかへ吹き飛んでいる。対する虎千代の剣は、傷ひとつない。曇り一つもない刃が、贄姫の喉元に向けられる。
「言うたであろう、次は一剣、互いに命のやり取りをせんと」
「ああ、確かに。そう言うお約束でしたわね」
鼻の頭を歪めた贄姫は折れた槍の柄を打ち棄てると、今度は腰刀を抜いた。二人がついに馬上、剣を交えるかに見えた。そのときだ。
騒がしい戦場を圧する新たなどよめきが、辺りを揺るがしたのは。
ごうごうと響く音は、嵐の雲のように湧き上がってきた。
それはまるでクジラの胃袋にいるような大地そのものが、蠕動する音に似ていた。
「これは」
その不穏さに、はっ、として虎千代が辺りを見回した。
「お嬢っ、やべえぞ。前線の敵が戻ってきたんだ」
鬼小島が巨体を揺らして虎千代の元に駆け込んできた。
「早く何か手を打たねえと、このまま呑みこまれちまいます」
「どうやら、時が来たようですわね」
と、言うと贄姫は剣を引き上げた。
「逃げるか」
その贄姫を、虎千代が怒鳴りつける。
「決着をつけようと言ったのは、おのれであろうっ」
「兄が愉しみにも、付き合うてやらねばなりませぬ」
けろりと言うと、贄姫は馬を翻した。さっきまで狂気に満ちた戦意を見せていたかと思えば、やはりこの女は判らない。贄姫は虎千代に見せつけるように、僕に刃を向けると、さらに挑発するように言った。
「本営でお待ちしております。もし相まみえること叶えば、決着はそこで」
戦況がさらに変化した。虎千代によって肩すかしを喰わされた敵勢が本陣の急を聞いて、立ち戻ってきたのだ。虎千代たちはこれで潮が満ちた孤島に取り残されるように、周囲を敵勢に完全包囲されることになる。
「はははっ、ようやく援軍が来よったわ」
自ら槍をとって立ち働いていた弾正などは、目を剥いて快哉を上げていた。
「これで一安心や。一時はどうなることかと思うたがなあ」
虎千代たちにとってもっとも意外だったのは、血震丸の反転が予想以上に速かったことだ。突撃旗がない時点で虎千代が、いちかばちかの本陣奇襲に賭けたと気づいた血震丸の勘はさすがに冴えている。血震丸率いる狗肉宗たちは鶴翼の陣を掻き乱して騒ぎ立てる長尾勢の背後から噛みついた。これで虎千代たちは完全に退路を断たれた形になったのだ。
今や血震丸の攻撃に鼓舞され、周囲に逃げ散った松永勢がゆっくりと包囲陣形を取り戻しつつあった。戦局は虎千代たちにとって、考えうる中で最悪の形に変化したと考えていい。このままでは進むことも退くこともかなわず、虎千代たちは敵勢に押しつぶされてしまうだろう。
贄姫は、僕を引き連れて本営に戻ってきていた。その頃には弾正は、槍を収めて再び酒杯を傾けている。
「今度こそあの虎姫ちゃんも、終わりやな」
色白の表に血を上らせた弾正は贄姫と戻ってきた僕を見ると、愉快そうに言った。
「真人、おのれも、そろそろ今後の身の振り方を考えておくことや」
ここにいて、僕には全くなす術もないのか。
奇襲を受け、虚を突かれたかに見えた松永勢は完全に持ち直した。ここから見ても、虎千代たちがいる場所は取り囲まれ、徐々に狭まって行くように見える。四隣に敵を迎え、自然と長尾勢は円陣のような形になっていた。その円が囲みを破ろうともがこうとするかのように撓み、今にも揉みつぶされそうに歪む様を傍観し続けるしかないのは、僕にとってとろ火で焙られるような苦痛だった。
だがただ一人の僕には、どうすることも出来ない。
いくら虎千代でも、この状況を打開するのは無理だ。孤立した軍勢が大軍に揉みつぶされて壊滅する。僕は楠正成が命を散らした湊川の戦の話を思い出していた。戦術の奇才と言われた正成も、最期は多勢に無勢の状況に立たされ、自ら命を絶ったのだ。虎千代がそんな苦境に今、立たされているかと思うだけで僕は、胸が詰まった。
眼下には幾度見ても徐々に絶望へと進んでいく戦況下しかない。僕はいつしかそれから目を背け、うつむいていた。
どうにもならない。
そう思うと脳裏にとめどもなく、二度と会えない人たちの顔が無数によぎった。絢奈、真菜瀬さん、鬼小島、黒姫。僕たちが過ごした日々と、重ねてきたつながりと。
(もう、だめだ)
眼前で崩壊に瀕しているそれらが、僕を通り過ぎて遠くへ行ってしまう実感だけが僕を翻弄した。すべてが終わりの気がした。まるで走馬灯のようだ。
ぐるぐると回る記憶の残像の中、何より、僕の瞼の裏で何度もはっきりとした像を結んだのは。
虎千代。
彼女と過ごした、いくつもの季節の陽射し。
激しい夏、たおやかな秋。そして、どこまでも澄み渡った冬。
その明るい陽が映し出す、彼女の様々な表情。
明るい笑顔、寂しそうな顔、そこに落ちる翳。
僕の心に確実な実在を持っている虎千代の姿が、消えていく。火種の絶えた灯が末期に盛るように僕の記憶を打ちのめしだした。このままでは、僕たちが確かめあってきたその時間ですらが、砂の城のように跡形もなく消えてしまう。なす術もなく、僕がそれを眺めていていいはずがないのに。僕はこんな形でそれを永遠に喪ってしまうことなど、どうあっても受け入れることなど出来ないのに。
僕にはもう、どうすることも出来なかった。
戦場のどよめきが、断続的な悲鳴に変わり、いくさが一方的な殺戮へと変わる。目を伏せ、打ちひしがれた僕にはその瞬間が戦場の音を聞くだけで、今そこに現れた気がした。それは、まるで死に瀕した巨獣の低く長い、断末魔だった。
真夏のぬるい泥濘の中へ、どっぷりと浸けこまれたようだ。泥の詰め込まれた僕の感覚器は、もはやどんな刺激も受け入れはしない。底なしの失望の沼に、どこまでも沈んでいき、たゆたうだけだった。
僕たちはもう、こうして緩慢に息の根を止められていくしかないのか。
屍のように重たくなる身体をどうにか支えていた時だった。
どん、と、大きな刺激を背中に受け、僕は崩れ折れるように這いつくばった。
僕はもう、戦況を聞きもしていない。周囲に誰がいるのかも気にも留めていなかった。
「顔をお上げなさい」
贄姫の声が降る。僕は贄姫に、背中を蹴られたのだ。
「…もうお終いだ」
「かも知れませんわね。なればこそよく、見ておかなくてよいのですか」
もう、見る必要もない。僕は小さく首を振った。
「詰まらぬ男。死する覚悟なれば、よう見届けなさいな。あの姫さまがお最期を」
僕はのっそりと顔を上げた。
冷たい目で、贄姫が見下ろしている。目の前では弾正が爆笑している。
「はははっ、あの小生意気な虎姫ちゃんを、ここに生け捕りにして引きすえてやるのもええなあっ」
弾正の放言に、ふっ、と贄姫が鼻で笑ったのを、そのとき僕は見た。後で僕は思った。このときこの場で戦況が決したことを信じていなかったのは、何よりこの贄姫だったのではないかと。
僕は不甲斐がなさすぎた。自分勝手な失望に浸らず、もっと虎千代を信じて待ってやれば良かったのだ。戦局はまだまだ終息していない。この生き物の生きざまは誰にも、停めることは出来ず、誰の言うことも訊きはしないのだ。
変化は、小さな綻びからやってきた。
松永勢に斬り立てられ、押し潰されそうな虎千代たちの軍勢の円がふいに流れ出したのだ。それは水が小さな穴から圧力を強めて外の世界に噴き出そうとする瞬間を見るようだった。完全無欠に戻ったかに見えた包囲陣形の右の下弦が、不自然な形に弾け、そこから不可思議な破綻が拡がっていったのだ。
弾正の笑みが消えたのは、本陣近い味方の敗報が届けられたときだ。
「阿呆言いな」
再び、戦局は流れる。
なんと。
逃げ場を失い、囲み殺されるだけのはずの長尾勢がふいに、猛反撃に出たのだ。しかもそれが再度構築された松永勢の鶴翼の囲みを、喰い破ろうとしている。この局面で信じられない奇蹟が、眼下に展開し出したのだ。
「どっ、どう言うことやこれは」
弾正は悲鳴のような声を上げて酒宴を立った。
今や前に前に、松永勢は押し返されつつある。影響は弾正の手廻りの兵にも及び、にわかに幕下が動揺し出した。
(何が起こったんだ)
僕自身も突然降って湧いたような奇蹟を受け入れられず、立ち尽くすばかりだった。急速とも思える長尾勢の軍隊運動の正体が掴めず、ただただ状況を見守るしかなかった。
円陣になった長尾勢は一時、追いたてられたように僕には見えた。しかしそこから、突撃を敢行した部隊が前進し、敵勢に押し返されるごとにそれに新たな部隊が続き、ついには押し返した。あの完全無欠な包囲陣形を打ち破ったのだ。それはがむしゃらと思える突撃の繰り返しであり、一見、自暴自棄と思える決死の突撃の乱発だった。兵法にはそのやり方を我責めと戒めるほどの無茶苦茶な攻めだ。
しかし矢継ぎ早に繰り返される新手のスピードは、相手に態勢を整えることすら許さない。進撃に進撃を繰り返した長尾勢はついにそれを囲もうとする松永勢を打ち破り、外へ外へ、凄まじい円運動を繰り返しながら長尾勢は出ていく。
その長尾勢は再び本陣に迫る勢いだ。
(すごい)
僕は感激を言葉にするのも忘れ、その様子を見守っていた。その間にも長尾勢は信じられない勢いで突撃を繰り返す。その軍隊運動がこの本営の丘の上からは、はっきりと見えるのだ。僕はそれを目の当たりにして、全身の震えを堪えることが出来なかった。
(これは)
軍勢は、円運動をしつつ突撃を繰り返している。
そのため、軍勢が前進しながら次々と新手を絶やすことがない。
無限の円運動。
言うなればそれが、新手を次々に繰り出すことが出来る秘密なのだ。
あれこそまさに上杉謙信がその得意とした伝説の戦術。
車懸りの陣じゃないか。
やはりだ。
僕は心の中で声なき声を上げた。
車懸りの陣は実在したのだ。
しかし奇妙だ。虎千代は車懸りの陣の存在を否定した。黒姫も含め、虎千代の戦術には車懸りの陣など、存在しないと言っていたはずなのに。
(どう言うことだ)
興奮を抑えきれず、僕は目を凝らした。あの円運動はどうして起こっているのか。一体どう言う仕組みなのだ。そのときあることに気づき、僕は、はっと息を呑んだ。
(そうか)
突撃部隊の先頭に常に、虎千代がいる。僕の目にも剣を振るい陣頭に立つ虎千代が、はっきりと見えた。一見無謀とも思えるあの突撃の繰り返しの先頭に、虎千代がいるのだ。確かに幕下に控える大将と違い、虎千代はいつも皆の前に立つ。鬼小島が言っていたように、虎千代はいつも最前線に立つ。しかし戦術の常識から言って、この状況はありえない。いくつもの点で常識はずれなのだった。
まず総大将自ら最前線にいるのはいいとしても、見ていると虎千代は軍勢を鼓舞し馬を駆り敵にぶち当たると、そのまま息もつかせず引き返し新しい味方を連れることで突撃を繰り返す。いわばあの不可思議な円運動は、虎千代が幾度も後続味方部隊を戦場へ導くことによって生まれている。恐らくはそれがこの車懸りの運動の秘密なのだ。
そこまで思いを巡らせたとき、僕は、絶句した。もしかするとこれが、車懸りの陣の正体なのではないか。
伝説の軍神と言われる上杉謙信だが、実際にその軍法は上杉家にはっきりとした形で残っているわけではない。しかしその中でもとりわけ謙信自身の軍法を表すものとして、伝えられている事実が二つある。
一つには、戦中の部隊の動きとして定められたものだ。
戦中、通常の部隊編制は通用させないこと。
兵法の常識から言うと、これはまさに常識はずれの軍法なのだ。虎千代自身が語ったように、当時の軍勢は騎馬武者一騎に馬廻りの衆がついて、数人ひと組の動きをするのがあくまで基本だ。
しかし謙信の軍法にあっては、それが通用しないと言う。どう言うことかと言うと、いざいくさになるとその編成が謙信自身にばらばらにされることがあると言うのだ。
例えば集結した軍勢に対し、指揮刀をふるった謙信が馬に乗ってそれを真っ二つに切り分ける。このように、まるで家畜の群れを追い立てる牧羊犬のように謙信は突撃部隊を編成した。注目すべきなのはそのとき、二つに分けられた軍勢の中に一家の馬廻りと騎馬武者が別々になってしまったとしても、元の軍勢の中に戻ることは許されないとされたことだ。そのため謙信の軍勢は謙信によって、自在に編成されたと言うのだ。普通、必ず一家単位でいくさに参加する武家の常識の中ではこれはまったくありえないことだ。
なんと謙信の軍勢は、謙信がそのときの戦況に応じて言わばアドリブで編成された突撃部隊によって、戦うことになっていたのだ。
これを裏付けるもう一つの軍法が、謙信死後、景勝の戦陣の軍法にも引き継がれている。大坂の陣の折り、戦況乱れるさなか、上杉景勝の軍勢は静寂に鎮まり返っていたと言う。徳川家康の使い番がそこに伝令を持ち寄ったのだが、上杉の陣では私語はおろか、咳ひとつ立てるものもいなかったと言う。
「さすがは故謙信公以来の軍法の行き渡ることよ」
と、それを聞いた家康自身がそう感心したと言う記録が残っている。
僕が考えるに恐らくこの軍法は、謙信の軍勢が、一瞬で変化する謙信の軍隊運動についていくためには常に命令に耳を研ぎ澄ませていなければならないから、であったものに違いない。謙信によって言わば電撃的に編成される突撃攻撃に、越後勢は一糸も乱れず対応する必要があったせいなのだ。
こうして行われる常識はずれの突撃攻撃の連続に、通常の軍制の軍勢が対応できるはずがない。
かの武田信玄にしても、上杉謙信との直接戦闘は手段を尽くして避けたことからも分かる。『常山紀談』と言う記録には、信玄が本気になった上杉謙信と衝突することこそ得策ではないと、撤退を決める逸話が収録されている。このとき信玄に味方していたのは、当時の関東の覇者、北条氏康だった。
この二人が束になってもかなわない、そう思わせる迫力が上杉謙信の攻撃にはあったと言うことだ。しかし考えてみればこの軍隊運動の法則を無視した謙信の動きに釣られれば、味方は総崩れになる恐れがある。緻密な信玄はそれをこそ危惧したのだろう。だがいざ、これに巻き込まれてしまえば逃げる術はない。
なるほどこの車懸りは、虎千代自身のがむしゃらな突撃によって生まれた言わば偶発的なものなのだ。誰にも予測できず、誰にも留めることはかなわない。虎千代自身も無意識に行っていることなのだろう。車懸りと言う呼び名など、虎千代自身が知らないのも無理はない。これは完全なるアドリブだ。まさかこの、命を賭けた状況下で。決死を踏越え、虎千代はこの戦術を編み出していたのだ。
回転は止まらない。
虎千代を中心にまるで嵐のように鶴翼の松永勢を襲い尽くしては、その囲みを根こそぎ剥ぎ取っていく。
虎千代もさることながら、それについていく長尾家の人たちも物凄い。虎千代の我がままを知っていて、皆が皆、ぴったりとその呼吸に合わせているのだから。
でも、無理もない。僕はあの長尾家の人たちを知っている。
鬼小島や黒姫だけじゃなく、力士衆や他の皆も。
虎千代を心から愛し、虎千代のすべてを受け入れ戦う男たちだ。
虎千代の我がままに付き合うことなど、もう慣れっこなのだ。
絶望の状況下から一転、なんと戦況がさらに逆転した。
「うっ、嘘や…なっ、なにがどうなっとるのか…判らんっ!おれにも判らんっ」
弾正ももはや、何が何だか判らなくなってきた。
混乱の極に達した本営は今度こそ、虎千代たちに対応できていないようだ。本営が指揮を放棄したことが伝わったのか、一万人の鶴翼の陣は見る影もなく決壊していく。逃げ惑う軍勢が乱入し、自陣を踏み荒らし始め、収拾がつかなくなってきていた。
完全な崩壊だ。もはやこの本営ですら、敵も味方も判別できない。
「逃げるなっ!おのれらっ、ここは本陣やぞっ!逃げずに戦わんかいっ!」
刀を振り回し弾正は絶叫するが、耳を傾ける者はいない。
この場でなぜか、悠然としているのは贄姫だけだ。
「またわらわの勘が当たりましたか」
僕に刃を向け、贄姫は微笑する。まったくもって不可解だ。思えば僕でなく、この贄姫だけが、こうなる事態をすでに予想していたかのようだ。
「遊びはこれにて終いですわね。思えば兄も気の毒なこと」
「…贄姫」
何を企んでいるのか。この女は、弾正に、いや、野望を持つ兄に与しているようで、明らかに別の物のために動いている。僕はその言葉を思わず呑みこんだ。返ってくるあてのない問いを、この女にすることの無意味を悟ったからだ。
今なら逃げられる。しかし、それは僕に刃を突きつけている贄姫が隙を見せたらの話だ。こんな状況になっても、贄姫は桶に張った真水のように、恬淡としている。
「さて、あなたはまだ逃げられませぬよ」
「…どうする気だ」
咽喉をこみ上げてくるえづきを堪えながらも、僕は訊いた。
「知れたこと」
小首を傾げた贄姫は底の見えない笑みを浮かべるだけだった。
「決着を」




