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第三十六話 己の最大の敵は自分~汚部屋のお掃除を任されたときの絶望~


 さて最高の作品を作り上げるべく、俺は葛飾北斎の自宅に向かった。

「ってなんじゃこりゃああああ」

 見るからにぼろい長屋に、大量の画材と書き損じが転がっていた。整理整頓という言葉が脳裏をよぎるが、彼は全く気にしなかった。

「元丁稚、俺の流儀に反することをしたら怒るからな」

 いやいやちょっと、さすがにそれはないんじゃないかと突っ込みたくなる。散らかしちゃう人って自分が何を持っていて、何を捨てたかわからなくなるから、全部取っておくんだよな。

「待って。俺が掃除するから」

 奉公していた先から破門されても、芸術に打ち込む姿は立派だ。だがこの部屋を片付けないと俺に未来はない。

 だって打ち合わせも全部こっちでやるんだから。

「信乃、さすがに参ったのじゃ」

 脳内彼女こと溶姫さまが困り果ててため息をつく。そういえばのじゃロリさまはお姫様だからここまでの汚部屋を見たことがないんだな。

 俺は普通の高校生だが、片づけの経験が悲しいことにある。しかも自分以外の人間が散らかしたものを、全部掃除するという。

「葛飾北斎、今日という日はこの汚れを成敗してやる」

「ふん、その強気がいつまで続くのか」

 どうしてバトルモードになっているのかわからないがここは負けたら終わりだ。俺は箒と雑巾で戦うことを決意した。

 しかし。

「全然落ちないなあ」

 顔料やほかの画材で汚れた床を拭くが、全く効果はない。考えてみれば強力な化学洗剤があるわけでもないし当然かもしれない。

「信乃、この色はきれいじゃのう」

 床に広がるシミを見ていると、深く落ち着きのある青色の欠片があった。溶姫さまは子供のようにはしゃいでいた。

 俺も掃除をするのでなければ見入っていたさ。

「これは青墨あおずみだ。俺たち絵師はよく使う」

 自慢げに答える葛飾北斎にへえと感心していた。確かに顔料や画材は彼の商売道具で種類も豊富に揃えている。

 そこがプロのプロたる所以だろう。

「もうここは諦めた方いいかもな」

 にやっと笑いながら男は囁く。悪魔の誘いだ。

 だが俺はこの部屋をきれいにするんだという無駄な熱意を持っていた。無駄だと気付いたのは数刻後の話だけど。

「煤払いでもあるまいし、そんな熱心にやらんでも」

「年末年始しか掃除しないからこうなるんだって」

 煤払いとは新年を迎える準備で家の中にたまったほこりや煤を掃除するイベントである。俺たちの大掃除と一緒だね。

 と話が逸れた。

「最終的に引っ越すかもしれないしな」

 ちょっと待て。この汚い状態で引っ越すのか。それはそれで問題だ。

「あのな、引っ越すにしても、大家さんに面倒をかけるだろう」

 ちなみに俺は大家さんのお手伝いもしていたから、こういう店子がいるのも百も承知だ。だからこそ説教をする。

「元丁稚は口うるさいな」

「口うるさくしてるんです」

 ああ言えばこう言う。俺たち本当は新しい読本のために打ち合わせをするんじゃなかったっけ。

 絵師とは個性的な生き物だとは知っていたが、ここまで個性が強い男は初めてだ。曲亭馬琴のきれい好きとは相反する極地にいる男だった。

「長政旅行記についてだが」

 葛飾北斎は俺が掃除をしているのもそっちのけで、絵を描き始める。筆で緻密なガレオン船を描くさまに呆気にとられ、思わず雑巾を落としてしまう。

「資料を集めた。当時の船を調べるのは骨が折れた」

 それでも見つけてくるのだからその情熱に圧倒された。

 俺も負けている場合ではない。

「空想の世界の話とは言え、やはり読者を引き込むには絵が必要不可欠だろう。異国の話は挑戦的だが、俺もそういうのは好きだ」

 創作の話になると熱くなる。

 だからこそ夢中になり、筆をとるのだろう。

「曲亭馬琴に負けている場合ではないぞ」

 中堅作家から売れっ子になるまでに何が必要か。俺も考えていた。

 夢やロマン。心躍る物語。そんな表現がしたい。

 上方旅行で学んだ文化に、人々の生活の中に彩を添えるような作品を作りたい。

「もうあの男は次の作品を作り始めている」

 俺たちも進まねば。

「掃除より大事なことがあるとは思わないか」

 とちょっと待った。やはりこの男俺の意識を掃除から離そうとしている。図られた。

「とりあえず、書き損じでぐちゃぐちゃになった習作はまとめておいたから。あとで捨てるなり、燃やすなり好きにしてくれ」

「ありがとな」

 にやっと笑うがいかんせん信用できない。絶対このままにするだろう。

「まあ俺も自覚はあるのさ。生まれてこの方、育ちが悪いものでな。付き合いが悪いだの、汚いだの、よく言われてきた」

 男はおもむろに話し出す。

「貧しい時の気持ちを忘れるのもどうかと思うのさ。豊かになるのはいいことだが志を忘れてはいけないとは思わんか」

 確かに彼は貧しい身なりをして、啜るのは茶だけ。しかもそこまで上等ではない。

 少しずつ成功はしているものの、己の夢のため、節制しているのだろう。

「成功するとすぐにそばにいる人間の気持ちや、過去の思い出を忘れてしまう輩は多いだろう」

 だから俺は変わりたくないのだと語る。

 変わりゆくものがある中で、変わらないものなどあるのだろうか。

 それは人の思いだろうか。

 彼の中で変えたくない思いや信念があるのだと実感し、俺も気持ちを改めた。

「だから頑張れよ、元丁稚」

「その呼び名直してくれないのか」

「時が来たら考える」

 茶目っ気たっぷりに肩を叩かれると俺は少しだけ笑った。

 いつまでも変わらない思いを抱いて、夢に向かって進めているだろうか。

 俺たちは仲間なのかもしれない。

 ふとそう思った。


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