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第三十三話 向かうは大坂の地~有名人にサインをもらう心境を教えて~

「ついに大坂の地に着いたか」

 伊勢から遠く、ついに上方旅行の目的地へとたどり着いた。師匠の山東京伝からもらった太田南畝氏の紹介状と共に、俺たちはまず井原西鶴の墓参りをした。

「しかし京の都では散々な目にあった」

 隣の曲亭馬琴は水がまずい、女が嫌だ、など宣うので、胃が痛くなる。散々な目にあったのは彼ではなく、俺の方じゃないのかと言い返そうか迷う。

「菓子がうまいのだけはよかったが」

 江戸の人間の言葉は珍しいのか行く先々で奇異な目で見られたが、それは仕方のないことだ。

「おまはんら旅人さんかえ」

 俺たちは目立つのかよく声をかけられる。それをうまくかわせないのが、笑われる原因なのだろうけど。

「信乃、諦めるのはダメじゃ。ふぁいとなのじゃ」

 ほかの人には見えない脳内彼女の溶姫さまがはっぱをかけるが、段々心が折れてくる。遊女や芸子さんの相手は俺たちには荷が重い。

「京で太田南畝先生に出会えたのはよかったけど、文人ってみんな気が強いのな」

 俺たちは中堅作家というところだけど、太田南畝率いる文人たちは切れ味鋭い論評を交わしていた。

「山東京伝師匠も俺たちをとんでもないところによこしたよな」

 それも期待の表れなのだろう。曲亭馬琴は漢籍や国文学など教養があるので、真剣に論じていたが俺はさっぱりだ。なにせ知識は高校の授業で習ったくらいだし。

「我々の修業は始まったばかりだ。上方旅行では何かを得なければ、この旅に来た意味がない」

 確かにその通りだが、俺はげっそりしていた。精魂尽き果てないか心配だ。

「井原西鶴の墓の面前だ。文句を垂れるのは後にしたい」

 かの井原西鶴と言えば、好色一代男や日本永代蔵など元禄文化の担い手として有名だ。コミカルで、かつ冷静なタッチで描かれる物語は人気があった。

 俺も最初に江戸時代に来た時に貸本屋業で好きな作家と答えたくらいだし。

 彼の墓前に手を合わせ、しばしの沈黙が訪れる。

 曲亭馬琴も色々考えて、この上方の地まで来たのだから。

「江戸も栄えているとはいえ、やはり文化の中心は上方だな」

 井原西鶴の才能のおこぼれにあずかりたい俺は、南無南無と手を合わせる。

「信乃、何か違う気がするのじゃ」

 溶姫さまの突っ込みは気にしない、気にしない。

「太田南畝先生からは上田秋成の寓居を教えてもらったんだよな」

 あの雨月物語を執筆した大先生だ。太田南畝とは京時代に親交を深め、互いに文化を論じていたそうだ。

「まさか俺たちが出会えるとは」

 漢籍に造詣が深く、国学については本居宣長とも論争したと有名だ。今でいうインテリ作家。会うのが楽しみだ。

「行こう、信乃」

 これは勉強のための旅だ。何かを得て、戯作者として一山当てたい俺たちは必死だった。

「旅は道連れ世は情け、袖すりあうのも多生の縁」

 井原西鶴の墓がある、誓願寺を去る途中で見知らぬ男が声をかけてきた。なんだろうと思うと彼は滔々と語る。

「旅人さんや、あんたがたは文人かな」

 文人と呼べるほど立派なものではないが物書きの端くれだ。

「あんたがたが首も据わらぬ赤子の頃から文人としてやってきた私からすれば、まだまだ先があるはずや」

 もう年も重ね、あらかた書きたいものは書いてしまったと彼は笑う。

「眼も衰え、片目は見えんのや。書くということが億劫になりながらも、まだ書きたいものを探しおるんや」

 彼が生きてきた人生が決して楽なものではなかったのだろう。だが書き続けたいという思いはまるで執念だ。

「かつては名を馳せた文人やったが、今は昔ほどの情熱を持てないでおるんや。たまには若い衆の話も聞くものだと諭された」

 どうしたものかと笑う。鋭い目つきはまるで匕首のようで、俺は震えた。

「あんたがたは江戸の戯作者やろう。話が聞きたいんや」

 その一言でピンときた。

「あなたは上田秋成なんだろう」

 俺たちが紹介された相手だ。太田南畝の旧友。

 ただ者ではない空気を漂わせている。

「ばれてしもうたか。賢い男や」

 彼は笑うが、目の奥には深い闇が見える。重いものを背負っているようでもあった。

「昔からなぜか考えてしまうんや。親に捨てられなければ、この苦しみはなかったんやろうと。義理の家族を何度か看取ったが、心の奥底は冷えたままやった」

 淀川のせせらぎが響き、何か底知れぬものを感じた。文人として活躍したのち今は引退して、研究を続けていると聞いてはいたが。

「墓を建ててあとは死ぬのを待つだけかもしれんのう」

 小さく笑う姿に胸が締め付けられた。でも何か言わないと。俺はその思いに突き動かされ、口を開く。

「過去にどんなことがあろうと、あなたは立派な人だ。俺にはわからない苦労があったはずだ。家族を看取ったときも、きっとその人たちは、ありがとうって言いたかったはずだよ」

「若いものは面白いことを言うんやな」

 老人は疲れたと笑う。

「生きるというのは要らぬ苦労をすることかもしれない。私は飽きてしまったんや」

 倦む、ということだろうか。

「それでも研究を続けているのはあなたにも、人に伝えたいという思いがあるからだよ」

 若さゆえの思い上がりとか、勘違いかもしれないが、何か伝えたかった。

「俺が書いているのだって、あなたが今まで書いてきたことだって、人には言えない思いがあったからだと思う」

 その思いに突き動かされ、何かをこの世に残したいと思ったはずだ。

「だから、飽きたといって忘れようとしないでください」

 年を重ねて、情熱が消え去ったとしても、最後に残される気持ちに嘘はつかないでほしかった。

「あんたは不思議な男や」

 上田秋成は虚を突かれたようにぼそりと呟く。

「あんた、じゃなくて信乃といいます」

「そうか、江戸の戯作者として噂は聞いていた」

 曲亭馬琴とともに上方に来たのだって、本物の文化に触れたかったからだ。

 かつて活躍した文人に出会い、こうして言葉を交わすことに意味があるはずだ。

 俺たちには才能があるかわからない。

 だがもがき、悩むことだってある。

 それはみんな同じだ。

「たまには若いものの話を聞くのもええな」

 いいところに連れて行ってやると彼は笑う。

「あんたらの話を聞いておったら、人の心を動かすものを書きたくなった」

 今まで文人として堅いものばかり書いていたそうだから。

「世間に知ってもらうことが大事なんや」

 曲亭馬琴と共に俺はうなずく。

 伝えたい思いがある。世間に知ってもらいたい。

 それは有名になりたいからではなく、自分ひとり生きた証が欲しいから。

「寂しい生活をしておったから、たまには昔話もええな」

 歩いて、彼の寓居へと向かう。大坂の地で一人生きる彼の寂しさに触れたような気がした。

「俺は雨月物語が好きです」

「そういってくれるのはありがたいんやけどな」

 実は最後に新たな短編集を作りたいのだと子供のように笑う。

 こうすると彼の屈託も忘れ、不思議と創作が楽しみになった。

「今日は語り明かそう」

 酒と上方の食事を楽しみ日は暮れる。

 曲亭馬琴とは漢籍の話を、俺とは戯作者としての心構えを教えてくれた。

 人生の先輩から学ぶべきこともある。

 彼の孤独を少しでも忘れてくれたら。

 楽しい時は一瞬だ。

 だがこうして出会えたのだから。伝えたいと思った。

 そして彼の方からも貴重な経験を教わり、文人としての覚悟を学んだ気がした。

 憧れだった上方の地で、創作者としての刺激を受けた晩だった。

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