第三十二話 出会いと別れ~伊勢のうどんは甘じょっぱい~
「ついに伊勢国に入ったな」
いよいよポチの目的地である伊勢に差し迫っていた。彼の主人がお蔭参りとして旅に出し、俺たちが面倒を見ながら歩いたのだ。
感慨深いような寂しいような気持もあるが、彼の旅路の集大成である。
伊勢国は多くの旅行客でごった返し、活気に溢れていた。
「ポチ、迷子になるなよ」
「ワン」
わかっているのかいないのか彼は凛々しい顔つきで吠える。対する俺と曲亭馬琴は人酔いしていた。
「俺たちの方が先に倒れそうだな」
「元気を出すのじゃ」
のじゃロリさまこと、溶姫さまが応援してくれるが、人の多さには敵わない。人混みが好きな人間てこの世にいるのかな。
「いつの時代も人が集まるところには集まるんだな」
皆が旅行に行く口実にお蔭参りをしていたという側面もあるのだろう。旅には旅の良さがあり、願いを成就させる目的だけでなく、娯楽としての一面もあったはずだ。
『なにごともおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる』
ここ伊勢では多くの人間が訪れ、和歌を詠んだ。その中には西行のこの歌もあり、曲亭馬琴が諳んじてみせた。
「目に見えないところで見守ってくれている者もいるのだろう」
それは俺たちの力だけでなく多くの人の力で旅ができたということでもある。ありがたい限りだ。
「ワンワン」
少し感傷に耽っていたのに、ポチは先に進んでしまう。彼は目的地である伊勢で楽しんでいるようにも見えた。
別れは間近に来ていたが俺たちも観光がてら外宮を散策する。
「うどんはいかが」
腹が減ったので、ポチを引きとめ、伊勢うどんを食べる。
このふにゃふにゃのうどんが特徴なんだよね。
「江戸ではそばばかり食べていたから新鮮だ」
甘辛い出汁と柔らかいうどんで腹を満たして、目指すべき場所へと向かう。
まずは外宮から参拝し、自分たち用のお札を頂戴する。
「豊受大神宮っていうんだな」
ちなみに奉られている神様は天照大神の食事を司る神様らしい。
いつの時代も食べるのは大変だから、こうしてありがたがられるのだろう。
「ここまで来られるとは思わなかったのじゃ。楽しいのう」
溶姫さまも喜んでいる。
江戸時代には多くの庶民も参拝した伊勢だが、遊郭やお伊勢歌舞伎など華やかな文化の栄えた場所でもあった。一大レジャースポットだったのだ。
「ポチ、お札をもらうぞ」
伊勢の神官からお札を頂き、竹筒にしまう。これから彼が帰りの道で失くさないように大事に入れる。
「お主も大変な苦労をしてきたのだ、気を付けるのだぞ」
ポチは行く先々で可愛がられていたので、愛されていたのだろう。別れが近づき、寂しい気持ちもあったが、そこはきっちりするのが俺だ。
「ポチ、今までありがとうな。お前がいたからずっと楽しかった。小便かけられたときはどうしようかと思ったけど」
少し軽口を叩きながら、伊勢街道と東海道の分かれ道となる追分に向かう。
「ワン」
おそらく彼の主人は東にいるはずだから、これから西に向かう俺たちとはお別れだ。長いような短い間だったが、騒がしい旅だった。
「これ信乃、まだ旅は続くのだ」
曲亭馬琴が名残惜しい俺の気持ちを察して厳しく言い放つ。彼も寂しく思っているのだろうが表に出すような人物ではない。誇り高いというか気高い人間なのだ。
でも俺はダメだな。
こういう時泣くとみんな泣きたくなるから我慢しないといけないと思ったんだけど、我慢しようとするほど余計に込み上げてくるものがある。
「ポチ、旅は険しいと思うけど、いい人の世話になるんだぞ。行きは俺たちがいたからよかったけど、帰りも気を付けてな」
なんとかそれだけ言い切り、別れようとする。
「ワン」
だが、ポチも何か悟ったらしく、俺の裾にかぶりつく。
「痛いって、痛いから」
相変わらず人のことなんか構いやしないところが彼らしくて笑ってしまう。マイペースでお調子者で、楽しい仲間だった。
「早く帰らないと、ご主人様のためにもな」
「グルル」
やはり名残惜しいのかポチもいつもの能天気な顔はどこに行ったのか険しい顔つきだ。
「俺たちだって行かなきゃいけないんだ。ごめんな」
頭を撫でてやると大人しく口を離す。彼だって分かっているだろう。
「じゃあな」
俺は泣く泣く別れを告げて、西へと向かう。
楽しい時間はあっという間だ。
だからこうして別れが惜しくなるのだ。
「信乃、振り返るなよ」
何度も別れを経験している曲亭馬琴もそう告げる。彼なりの思いやりだろうか。
「西行の和歌のように、ポチを見守ってくれる者もいるはずだ。案ずるな」
「『なにごともおはしますかは知らねども』か」
昔の人は目に見えない何かを信じていたのだろう。だからこうして和歌にも詠んだのだ。
「やはりつらいものはつらいな」
彼をいたく可愛がっていた曲亭馬琴もそうなのだから、皆寂しいのだろう。
男の目にも涙があった。
「行こう」
遠くで犬の遠吠えがする。
帰らないつもりだろうか。
それとも。
俺たちへの餞だろうか。
「さようなら」
一抹の寂しさを抱きながら、俺たちは進む。
目指すべき道へと。
「上方旅行もあと五日ほどで目的地に着く。準備を怠るな」
目的の場所はすぐそこだ。
したいこと、学ぶべきことは山ほどある。
「俺たちは戯作者として、上方文化に触れて勉強がしたい」
そのためには上方にいる文化人たちと交流を通して学ぶべきことがあるはずだ。
「太田南畝の紹介状だけは失くすなよ」
山東京伝師匠がくれた大事なものだった。彼のおかげでなんとか旅を乗り越えることができた。
「これから精進しないとな」
百戦錬磨の文化人を相手にするのだから、感傷的になっている暇はない。
切磋琢磨する仲間とともに、向かうべき場所へ。




