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第三十一話 その手は桑名の焼き蛤~熱々の魚介類で火傷するのはよくあること~

 尾張の国を抜けて、ついに伊勢国に突入した。俺たちは犬が向かうお伊勢へと歩を進めた。

「ポチ、もうちょっとゆっくり歩こう」

「信乃、その手はもう聞かん」

 曲亭馬琴はいつも犬の肩を持つ。文明に甘やかされた現代人の俺には手厳しい。ちょっとは俺に優しくしてくれたっていいのに。

「せっかく桑名に来たんだから、ハマグリを食べに行こうよ」

「信乃、お主まだ懲りていないのか」

 箱根で黒卵を食べたことを蒸し返される。言い返せないのが悔しい。

「根に持つ男はモテないぞ」

「男に好かれてもあまり興味がない」

 全人類に興味がなさそうな曲亭馬琴がぼそりと呟く。

「ポチだって食べたいだろう」

「犬に食わせて良いものなのか」

 心配そうにポチを見やる彼に何か言いたくなったが俺は小言は言わない主義だ。犬の心配が先かよと思ったが、知らない知らない。

 旅行をすると相手の本性が見えるというが、俺たちは男女のカップルでもないから別れようもない。

「松尾芭蕉が参拝した大智院に向かおう」

 かの俳聖がこの周辺を歩いたと有名だ。奥の細道とかロマンがあるよね。彼もまた北千住から旅に出たのだから俺たちと同じような道のりを歩んだ訳だ。

『うき我をさひしからせよ秋の寺』

 文化の時代から百年もさかのぼる時代にも人々は詩歌を楽しんだのだろう。しかししみじみとした趣があるね。

 と一人考え事をしていた俺はあることに気づいてしまった。

 のじゃロリさまこと溶姫やすひめさまがすごく静かなのだ。

 大丈夫かな。

「信乃、心配はありがたいが大丈夫なのじゃ」

 無理をしている気がした。彼女の身の上話を聞いた後では徳川家とは因習深い血族に思えた。権力者とはいつの時代も孤独なのだろう。

「今は旅を楽しむのじゃ。ポチも楽しみにしておる」

 そう言われると何も返せない。俺は彼女に励まされてきたので何か気が晴れるようなことをしたかった。

「そうだ、海に行こう」

 有無を言わせず、海岸へと向かう。曲亭馬琴は不思議そうな顔をしたが、一応ついてきてくれる。

 海鳥たちの声と寄せては返す白波の音が心地よい。あまり人はおらず、俺たちだけだった。

「ポチ、行ってこい」

 曲亭馬琴は犬を放ち、好きにさせている。俺も周囲に誰もいないことを確認すると砂浜で裸足になる。

「いやっふー」

 叫びながら犬と一緒に駆け出す。傍から見たら変な奴だが、こういうのは楽しんだもの勝ちだ。

「なあ、みんなで走ろうぜ」

 曲亭馬琴と溶姫を呼ぶ。海でバカやるというのも青春だ。彼らと青春するというのもやってみたかったのだ。

「致し方ない」

「仕方ないのじゃ」

 付き合ってくれる仲間がいるのもいいものだ。一人ではこうしたこともできないし、味気ないというのもある。

「ワンワン」

 ポチも楽しそうに吠える。みんなで駆け出すと波が襲い掛かったり、砂浜に足を取られたり。そんなことも楽しいのだ。

「俺たちの旅も半ばだけど、こうして気の合う仲間と旅行できてよかった」

 いつもは文句や喧嘩ばかりだが素直に言葉が出てきた。心からそう思う。

 曲亭馬琴はひねくれものだけどいいやつだし、溶姫さまはいつだって優しい。ポチも騒がしいが気のいいやつだ。

 いつか別れが来るかもしれないが、こうして思い出を残せるのならば、旅にきた甲斐があるというものだ。

「楽しいばかりが人生じゃないけど、みんなといると俺は幸せだな」

 そう呟くとポチが飛びかかる。嬉しいのか小便までしていた。

「おいポチ」

 そういえばポチもこういうやつだった。だが文句を言いながらも犬の存在に和んでいたのも事実だ。

「海で洗えば汚れが落ちるかな」

「それはない」

 真顔で曲亭馬琴に突っ込まれる。なんだかおかしくて笑ってしまう。

「だよなあ」

 海水を手で掬い、彼にかける。これで俺も曲亭馬琴も濡れネズミだ。それを見て溶姫さまが笑っている。

「いいのじゃ、信乃。もっとじゃもっと」

 彼女の憂い顔が晴れたところで、俺たちはびしょ濡れだった。これで宿に泊まるとしても迷惑なので、衣服が乾くまで待つ。

「ワンワン」

 ポチが大きなハマグリを咥えていた。そういえば桑名の名物だっけ。

「宿の土産にしよう」

「その手は桑名の焼きハマグリ」

 曲亭馬琴の提案にふざけた返しをする。ちなみに少し先の四日市もハマグリで有名だったりする。

「信乃も言うようになったな」

 彼はいつも気難しい顔をしているのに今日は笑っていた。

「そろそろ目的地の山城国に向かった後のことも考える時だ。だが今は信乃のいう通り楽しもうと思ったのだ」

 楽しい時間はあっという間だ。俺たちの目的は上方の文化に触れて、戯作者として成長することだ。そして江戸で素晴らしい作品を作りたい。そんな野心あった。

「思うに今までは堅苦しく考えすぎていた。売れるだの売れないだの誰が考えても結論は出ないものだ。そんなことに悩むのは馬鹿らしい」

 作家として一山当てたい気持ちはあるが、一人の人間として考え、楽しむことも大事だと彼は言う。

「そうだな。俺たちも山東京伝師匠だけでなく、多くの作家たちと切磋琢磨していい作品を書き上げたい」

 上方でいえば上田秋成の雨月物語に興味を持っていた。今の時代、上方の文化に影響を受けていたが、江戸の文化も捨てたものじゃない。

「頑張るのじゃ」

 溶姫さまも応援してくれる。

 この旅で俺たちは何か得るものがあるはずだ。そして、それを糧に面白い作品を世に出したい。そんな思いがあった。

「ワンワン」

 ポチが俺の帯を引っ張ってくる。構ってほしいらしい。

 だが。

「おい、帯が取れるっ」

 殿様のよいではないか、と帯を巻き取る様をまさしく再現してしまった。

 慌ててポチを制止するが言うことを聞かない。

「こらっ」

 怒りながらも俺たちは笑っていた。こんな時間がずっと続けばいいのにと思いながら。

 その晩、ポチの取った焼きハマグリと酒を口にしながら、語り明かした。旨い酒と仲間がいれば満足だった。

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