第三十話 犬と徳川の姫~徳川家康の生まれ故郷は岡崎!? ~
「ワンワン」
ポチを連れた曲亭馬琴はまんざらでもない様子で散歩をしている。元より健脚なのは昔の人だからなのだろう。
だけど現代っ子の俺は。
「ねえもう疲れたよ」
「わがままを言うでない」
どうして俺の方が文句言ってるように見えるんだ。
いつもはあれだけ不平不満の塊の曲亭馬琴は犬を前にするとデレデレしている。女に興味がないと疑った時代もあったが、興味の方向性が違っていたようだ。
「信乃、焼きもちはいかんのじゃ」
脳内彼女ののじゃロリさまが指摘するが全く持って見当はずれなので笑ってしまう。
「俺は、図体は大きいけど鍛えていないから、普通の人より体力はないんだよ」
「自慢げに言うことではないような」
俺は見た目で相手に威圧感を与えることはできるが、己の力に限界があることを知っている。
「なあポチもそろそろ休憩したいだろう」
「ワン」
お伊勢参りに向かうはずの犬は愛くるしい瞳で見上げてくる。だが俺の言葉を理解したわけではなく。
「ワンッ」
全速力で東海道を駆け抜けていく。当然誰も追いつけるはずもなく、慌てて探す羽目になる。
「こら、ポチ」
待てと言いながらも疲れた身体に鞭打って駆け出す。ない力を振り絞って、全速力の犬の行方を捜した。
「全く、あいつ……」
一人旅が寂しそうだから仲間に入れたが騒がしくなったものだ。俺たち、一応大人の旅とはまた違う味わいがある。
「信乃、先に捕まえたから早く来い」
曲亭馬琴は思いのほか素早い動きで、ポチを捕らえる。どうやら追いかけっこにも飽きたのか、犬は人の回りをうろうろしていた。
「ポチも元気じゃのう」
のじゃロリさまはころころと笑う。犬や子供などが好きな彼女らしい。
「そろそろ岡崎じゃ」
岡崎ってあの徳川家康の生誕の地じゃないか。俺はひそかに感動していた。
「ついに家康公の生まれ育った場所にまで来たな」
「そうじゃ、徳川の家を大きくしたのも、ご先祖さまのおかげなのじゃ」
江戸時代という長い時代を築き上げた家康公の偉大さを実感する。のじゃロリさまも誇らしげでほほえましい気持ちになった。
「のじゃロリさまは本当に色々詳しいよな」
「信乃に褒められると嬉しいのう。もっと褒めるのじゃ」
得意げな彼女が可愛くて頬が思わず緩む。この人一応人妻なので手は出せないが。
「のじゃロリさまって案外可愛いよな」
「ふふん、そうじゃろそうじゃろ」
のじゃロリさまがご機嫌になったところで、曲亭馬琴が声を張り上げる。
「信乃、油を売ってないで急げ。日が暮れる」
「わかったよ」
遠くから聞こえる声がおかしくて俺は駆け出す。
「あの男もせっかちじゃのう」
マイペースな男に自分のペースを乱されるのは不思議な感覚だ。ポチも加わり、にぎやかな旅になっていた。
「岡崎は東海道でも華やかな町だ。旅籠に困ることはない」
曲亭馬琴はそう語る。片手には道中記があり、泊まる宿を先に探してくれたようだ。
「ポチは宿の庭に預けることにした。放っておくのも気の毒だからな」
「ワン」
ポチは理解しているのかいないのか上機嫌でしっぽをぶんぶん振っている。どうやら曲亭馬琴に相手をしてもらってご機嫌のようだ。
「先にみたらし団子が食べてしまったから今日は奢る金がない」
それは俺も同じだったがいつものことじゃないか。甘いものへの執着を彼が失くしたわけではないことを思い知る。
「ということで私は食事をしたらすぐに寝る。ポチの相手をして少し疲れたのだ」
そう宣言するとすたすたと旅籠に入り、横になった。
「やっぱりマイペースだよなあ」
「そうじゃのう」
のじゃロリさまは楽しげだった。俺もみんなと旅ができて、日々が充実していた。
「俺も風呂に入ったら、寝よう」
食事をとると、曲亭馬琴はすっかり眠っていて、俺は暇になる。
こういう時、小説が書ければと思うけど、なかなか書くのも気合がいるのだ。
「信乃、来るのじゃ」
のんびりしていたらのじゃロリさまが焦った声で呼んできた。
「ポチがいないのじゃ」
まだ夜とはいえない黄昏時。探せない時間帯ではない。
夜になれば危険があるが、今なら大丈夫だ。
曲亭馬琴は何度呼んでも起きず、俺たちはすぐに外に出る。
「ポチ、どこだっ」
カラスが夕暮れ時を知らせる。まだ日は傾き始めた頃で、周囲も明るい。
「信乃、ここじゃ」
神社の手前で尾を振りながら俺たちを待っていた。俺の心配を知ってか知らずか、はっはと息をつく。
「のじゃロリさま、ありがとう」
人気がない場所で犬を抱き上げる。他に誰もおらず、世界で俺たちだけになってしまったような感覚に陥る。
「岡崎、きれいなところだよな」
「そうじゃのう」
どこか面はゆい表情でのじゃロリさまが頷く。どうして彼女がそんな顔をするのか気になった。
「ねえのじゃロリさま、ずっと聞きたかったことがあるんだ」
俺は彼女のことをほとんど知らないのだ。徳川家斉、時の将軍の娘であったことくらいしか。
「君は何者なんだ? 」
「ふふ、ついに聞いてくれたのじゃ」
その表情はどこか寂しそうで切なげで、いつもの彼女とは違う顔をしていた。
「私は武家のお姫さまじゃった」
天下の将軍の、たくさんいる子供の一人。それだけではないはずだ。
「父が存命のうちは苦労というものも知らないただのお姫様じゃったのう」
だけどそれは彼女のほんの一面に過ぎない。
「私は、溶姫と呼ばれていた」
この時代ではまだ生まれていないが、彼女の存在も俺と同じで歴史の歪みなのかもしれない、
「少し昔話をしてもよいかのう」
彼女が語るのは、かつて家に振り回された過去の話だった。
「私は加賀藩に嫁いだのじゃ。それはそれは幸せな夫婦じゃった」
ただ彼女の母は野心家で、自分の野望のためには手段を選ばない女だった。
「ややこが生まれたのじゃが、時世が悪かった」
自分の母の野望に巻き込まれ、息子を次期将軍に担ぎあげられたのだ。だが母の野心に気づいた幕府方はそれを阻止した。
「結局私は母を引き取り、国許では色々言われたのう」
元より母のことは好いていたわけではなかったが、見捨てることもできなかったのだと笑う。
もう終わったことだと言いながら彼女は傷ついているように見えた。
「それにお腹を痛めて産んだ我が子に先立たれ、この世の終わりに感じられたのじゃ」
生きるということは苦しいばかりに思えたと語る。
「だけれど、私は後悔していないのじゃ」
義理人情に厚い彼女だから、信念を持って生きたということなのだろうか。
「母を遺し、私は死んだが因果なものじゃのう」
またこうして新たな魂として江戸時代を生きることになるとは。
「私は母の派手なところが好きではなかったのじゃが、きらびやかな装束を与えてもらったのは嬉しかったのう」
彼女なりに母への思いがあったということか。
「……っぐすっ」
「信乃、何を泣いているのじゃ」
俺は思わず涙をこぼしていた。こんなのってあんまりだ。彼女はあんなに苦労したのに、母より先に亡くなってしまっただなんて。
「俺の母さんは普通で優しくて、時々怒られることもあるけど、やっぱり好きでさ」
でも彼女は俺の知らないところでたくさん辛い目にあって、それでも人の幸せを願える人なのだ。
「俺はやっぱり許せないな。こんなに優しい人が苦労して、利用しようとした母親がのうのうと生きているのは」
「いいのじゃ、信乃。私だって己の身の上を嘆き、人を恨んだこともある」
だがそんなことをしても誰も救われない。
だから上を向いて歩いていきたい。
彼女はそう笑った。
「信乃は優しいのう。人のために泣けるのだから」
優しく頭を撫でられると涙が溢れてくる。我慢しようとしているのに止まらない。
「私は信乃に出会えただけでも幸せじゃ」
そして、彼女の頬にも一筋の涙が流れる。
「今信乃と話してようやく報われた気がしたのう」
ずっと抱えて生きていくには重い過去。きっと誰にも言えなかったのだろう。
世の中不条理なことがあると理解している顔で彼女は何ともないように笑うのだ。それが悲しくて、それ以上に胸を打たれて俺は何も言えなかった。
「帰ろう。ポチも見つかったことじゃ」
ずっと静かに待っていた犬の背を撫でて、ゆっくりと歩を進める。岡崎の地で彼女の出自を知ることができた。
悲しい過去を消すことはできないけれど、俺は仲間としてできることはしたいと思うようになった。
「ありがとう」
今はそれを言うので精いっぱいだった。
俺もいつかは大人になれる日が来るのだろうか。
いつかこの胸の痛みを忘れることはできるのだろうか。




