第二十九話 野生の呼び声~どうして犬って食べ物の名前を付けたくなるの~
大井川を越えた後も俺たちの旅は続いた。特に山の難所が続き、身も心も疲れ果てていた。だがそれもここに来たらすべてが吹っ飛んだ。
「浜松じゃのう。信乃見るのじゃ」
負ぶっていた脳内彼女ののじゃロリさまが嬉しそうにはしゃぐ。ついに遠江の国まで来たのだ。
そして浜松と言えば。
「ウナギ食べような」
ぐっと隣にいる曲亭馬琴の袖を握り約束をする。彼は何か言いたげだが俺の勢いに押され、肩をすくめた。
「信乃は本当に食い意地が張っているな。しかしウナギは三島だろう」
確かに周囲を見ると浜名湖には養殖場がない。どういうことだ。
「信乃、養殖とは何じゃ」
のじゃロリさまが知らないということはこの時代にはまだ養殖が盛んではないのだろう。
マジか。せっかく楽しみにしたのに。
「三島は通り過ぎた。帰りに寄ればよい」
俺はスーパーで母親が買う養殖ものしか食べたことがない。もう食べられないと思うとがっかりだが、楽しみは後にとっておこう。
「信乃は現金じゃのう」
なぜか先ほど以上に呆れられた。いいじゃん。食い意地張るのは悪いことじゃないよね。
「気をつけろ信乃」
そうやって話していると曲亭馬琴が声を潜めて注意した。
がさがさと草むらが揺れ、獣の気配がする。
「イノシシかもしれぬ」
そうなったら俺たちは逃げるしかない。恐怖と緊張に息を殺していると。
「ワン」
白い獣が吠えた。
ワン? ということは。
「犬か」
しめ縄と巾着をつけているところから飼い犬だろう。野犬じゃなくてよかった。そうだったら食い殺されている可能性もあったのだ。
「おかげ参りと書いてあるな」
おかげ参りとはと首をかしげていると、これだからと冷たい目を向けられる。
「お伊勢に参る犬のようだ」
ええお伊勢参りとか羨ましい。俺たちも上方に向かうとはいえ、伊勢は途中で道が分かれる。予算の都合もあり、いけないと思っていた。
「一匹で旅させるのも可哀そうだし、一緒に伊勢まで連れて行かないか」
「しかし我々にも時間がないからな」
曲亭馬琴は困った顔で目をそらす。飼い主も祈りたいことがあってわざわざ大事な犬に旅をさせているのだろう。その思いが想像できるから無下にもできない。
「クーン」
白い犬はぼたぼたよだれを垂らしながら、こちらを見上げる。お願いだからと俺たちに懇願しているようだった。
「……致し方ない。旅は道連れ世は情けというからな」
あの頑固な曲亭馬琴が折れた。俺の話なんてほとんど聞いてくれないのに。
「信乃、私を鬼か何かと勘違いしていないか」
「いやあ、まさか」
何のことかなと口笛を吹いていると再びため息をつかれる。
「私とて人の心はある。お伊勢参りに行きたくてもいけないこの犬の主人のことを思うと思うとな」
彼のことを見直した。俺はケチで気の小さい男だと思っていたけど、意外と心は広かった。浜名湖サイズとまではいかなかったけど。
「ほれ、このポチを見習って信乃もきびきび歩く」
「ポチって」
べた過ぎて逆に珍しいネーミングだ。現代っ子の俺はチョコとかモカとか食べ物の名前をつけたくなるけど。昔の人とは感覚が違うのかな。
「信乃、お天道様は見ているのじゃ、腐ってはダメじゃ」
のじゃロリさまが励ましてくれる。俺は疲れた体に鞭を打ってとぼとぼ歩く。
せっかく浜松のウナギが食べられると思ったのに。
木賃宿を探しながらうろうろしていると立派なお城が目に入る。近くに入るのは許されないが、この中に大名がいるのかな。
「こちらは浜松城だ」
またの名を出世城というそうだ。
「そうじゃ、天保の改革で父が亡くなった後の政を担った、未来の老中首座も城主になるのかのう」
のじゃロリさまも俺も未来からやってきているので時間軸がわかりづらい。
ええと天保の改革って、水野忠邦じゃん。
「母はあの香月堂の養女だったそうじゃ」
今は唐津藩の世継ぎにもなっていないはずだと付け足す。
「あの男も野心家じゃったのを思い出すのう」
のじゃロリさまにもいろいろあったんだね。あの大御所政治で有名な家斉の娘だから、仕方ないかもしれないけど。
「今の時代はまだよかったのかもしれぬ」
文化が成熟し、一時の夢のように輝いた時代だ。それを担ったのは俺たち戯作者や絵師、役者たち。
暗い世には確かに希望が必要だ。
それを奢侈で退廃的と呼ぶのかもしれないが、文化が爛熟した時代でもある。
「信乃、頑張るのじゃ。明るい未来を信じるのじゃ」
外国からの使者や農民たちの都市への流入など問題はあったが、それはまだ足音を立てて迫ってくるほどではない。
楽観視はできないが、今は俺たちができることを信じよう。
「信乃、行くぞ」
「ワン」
すっかりポチと曲亭馬琴は意気投合しているようだった。犬が好きなのか。忠義とか好きそうだしな。
でも。
「ウナギ、食べたかったな」
「信乃……」
案の定呆れられる。犬にまで同情的な目で見られる。ぐぬぬ。日本語がわかるのか。俺は少しだけ負けたような気になる。
「わかったよ。旅籠を探そう」
金はないが、ここは東海道の中間地点。多くの旅籠や本陣が並ぶ。宿にあぶれることはないだろう。
「駿河を過ぎて、どんどん上方に近づいていくのは楽しみじゃのう」
これから俺たちは日本の文化の中心に向かうのだ。
政治は難しいこともあるけれど。
俺たちは物語で伝えられることだってあるはずだ。
「ワン」
それより前にお伊勢参りだと催促される。犬はぶんぶん尾を振って、アピールしていた。
「わかったよ」
旅の仲間も増えて心は弾んでいた。




