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第二十八話 ゆく川の流れは絶えずして~来る東海道の難所!? ~

『馬方はしらじ時雨の大井川』

 かの俳聖、松尾芭蕉はこの川を前にしてそう詠んだという。噂通り、関門とされる険しい道のりだった。

 というのもこの大井川、橋がなく急な流れのため、川越人足の手を借りて肩の上にのせてもらうわないといけない。

 ほかに移動手段がないのだ。

 しかも船が禁止されている。急流を越えるのも一苦労だ。

「しかし困ったのう」

 脳内彼女ののじゃロリさまがため息をつく。

「信乃が黒卵に金を使わなければ、こんなに困ることもなかったのじゃ」

「ぎくっ」

 事実は事実だが、はっきり言われると刺さるものがある。

「信乃、川札の値段を見てきた」

 曲亭馬琴は浮かない顔だ。それもそのはず。渡河の料金はその日の川の深さで決まる。一人川札が一枚必要となるということだった。

 さらに俺たちには山東京伝師匠が持たせてくれた書画がある。

 すべてを運ぶとなると金銭面が厄介だ。

「金は天下の回りものというが、それは商売をする連中も同じだな」

 元は武家の男だからか曲亭馬琴は皮肉っぽく呟く。

「仕方ない、ここは俺が行ってくる」

 金を使ってしまった責任感もあり、川会所に向かう。

「川札一枚四十八文だ」

 高い。一杯十六文のそばよりはるかに高いし、黒卵や旅籠で豪勢に金を使ったことが悔やまれる。

「ここは俺が何とか」

「旦那、裏道はないぜ、一人で渡ろうなんて野暮なことは考えちゃいけねえ」

 男衆が真剣な顔で諫める。

しかも今日は川が深いため、川札が二枚必要だ。

 俺たち二人と荷物を含めるとかなりの額になる。

「致し方ない、ここは師匠の力を借りるか」

 ずっと肌身離さずとってきた山東京伝の書画を取り出す。貴重な金品を失うわけにはいかなかったがここまで来ると後に引けない。

 東海道中膝栗毛の弥次さん、喜多さんもここで粘ったそうだが、俺も腹を括らねば。

 札所で川札と交換する必要があり、金目の物を風呂敷から取り出す。

「これはこれは、かの山東京伝作の錦絵ではないか」

「ええ、旦那。もしやあんた京伝の知り合いか」

 知り合いも何も俺たちは彼の弟子だ。それに胡坐をかきたくはないが、使えるものは使うのがポリシーだ。

「ああ、一応戯作者の端くれだ」

「俺たちが知っているモン書いているのか」

 俺だけでは埒が明かないと思ったのか曲亭馬琴も後ろから応戦していた。意外と頼りになる男だ。

「筆名は曲亭馬琴だ」

「そいつは知らねえな」

「……」

 悲しいかな。世の中の人は人気作家以外は知らないのだ。山東京伝は知っていても、弟子の名までは知らないというのが実情だった。

「俺も一応戯作者の……」

「旦那のことも多分知らねえな」

 二人ともがっくり来ていると男たちが気の毒そうな顔をする。

「ま、あんたらもいつか有名になったら俺たちのことをネタにしてくれ」

 書画はありがたく交換させてもらうと告げられる。

 この時ばかりは師匠の知名度に感謝した。

「ふう、まさしく金は天下の回り物じゃのう」

 のじゃロリさまが呟く。今回はウィンウィンというよりはお互いに深い傷を負う結果となった。

「信乃、こういう経験をばねに悔しさを晴らすのじゃ」

 意外と体育会系の発想だ。ちなみに俺は身長ばかり高いだけで中身はかなりの文化系なのだ。

 悔しいという気持ちはあるが、それを認めると自分でも悲しくなるので深く考えないことにした。

「まあよい資金面は何とかなった。あとは無事に川を渡れるかが問題だ」

 曲亭馬琴は至って冷静に返してくる。あれ? 俺だけがむなしい気持ちになっていただけなのか。

「私たちの名が世に出ても、名が知られるのにはまだ時間がかかる。それまでに次の読本の構想を練るつもりだ」

 猪突猛進だった男も成長するということか。

「先ほどの一件で私も奮起した」

 今まである程度売れていたと思っていた自身の考えが甘かったのだと告げる。

「此度の上方旅行でさらに力をつけて、見返してやる」

 こちらも熱い気持ちになったようだ。負けず嫌いな彼らしい。

「旦那方、渡りますぜ」

 書画はあらかた売ってしまったので、残ったのは太田南畝の紹介状と、わずかな金品だけだった。

 少ない荷物で川を渡る。急流に流されまいと必死だった。

 男たちが肩車をして進むのだが、水は冷たいし、流れは急で溺れそうだ。

「信乃、ふぁいとなのじゃ」

 脳内彼女ののじゃロリさまが応援してくれるが心が折れそうだ。何は隠そう、俺はカナヅチなのだ。

 溺れたら一巻の終わり。俺は必死に男の頭にしがみつく。

「おっと旦那、それじゃ前が見えねえ」

 男に注意され、俺は余計に力が入る。だって前を見たら川、後ろを見ても川。どこ見ても水しかないんだよ。

「旦那、落ち着けって」

「これが落ち着いてられっかよ」

 人って恐怖に襲われると発言が強気なのか弱気なのかわからなくなるよね。

 まさしく今の俺のことだ。

「俺は泳げないし、顔に水つけるのもダメなんだよ。溺れたら死んじゃうんだよ」

 必死に叫ぶが相手にされない。

「信乃、少し格好悪いのじゃ」

「カッコ悪くても俺はっ、水がっ、怖いっ」

 そう宣言すると男が笑いだす。

「旦那、でかい図体している割に、中身は子供みたいだな」

 そうだ。俺は少し前までただの高校生だったんだからな。成長しない身体と心が恨めしい。

「信乃、こういう時はひーひーふーなのじゃ」

 なんか違くないかと思いつつ、俺は藁にも縋る思いで息を吐く。もう破れかぶれだった。

「ひーひーふー」

「産婆でも呼ぶか」

 男に心配されるが気にしたら負けだ。

「あーあー見えない、聞こえなーい」

 最後は目を塞ぎ耳を覆う。川のせせらぎが癒しとか嘘だよね。

 恐怖でリラックスできるとかマゾなのか。

「信乃……」

 のじゃロリさまに呆れられるがわが身が大事だ。

 俺の魂の叫び声は曲亭馬琴にまで響いていたらしい。

「何かあったのか」

 珍しく心配されたが、俺は無言を貫いた。

 男にはプライドとか見栄とかそういうものがあるんだよ。

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川とは言ったものだ」

 天国の箱根に対して、地獄の大井川だった。東海道の険しさを思い知る。

「ううむ。それは信乃が例外のような気もするのじゃ」

 のじゃロリさまがぼそっと呟く。

 耳が痛いが、聞こえないふり。

「金も減ってしまったし、これから先が思いやられるな」

 曲亭馬琴の一言もグサッと刺さる。

「言っておくけど、俺だって頑張ったよね? 」

「どうして怒りながら訴えかけるのだ」

 別に怒ってねえし。ただ怖かっただけだし。

 人は恐怖を前にすると大体キレるか泣くかのどっちかだ。

 今の俺は両方だけど。

「わかったわかった。信乃、そなたも頑張った」

 なぜだか彼に慰められる。いつもは俺を顎で使う男なのに、立場が逆転しているぞ。

「わかったから今日は宿を探すぞ」

 彼も一家の大黒柱として、一人の父親として俺の知らない顔があるようだった。

 そんなことを知った一日だった。

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