第二十六話 可愛い子には旅をさせよ~やはり上方に向かうの巻~
その年の正月に、十返舎一九が東海道中膝栗毛を出版した。蔦屋の葬儀で出会った彼があの作者だとは知っていたが、飛ぶ鳥を落とす勢いでヒット作を出しているとは思わなかった。
そして俺は曲亭馬琴に呼ばれ、旅支度を始めていた。
「信乃、私も上方の文化に触れる必要があると思い、旅に出ようと思うのだ」
相変わらずマイペースな彼は俺が付いてくるのも当然だろうという顔だ。
「ううん。俺も仕事暇だしな」
たまに貸本屋の手伝いや、長屋の大家さんにこき使われるくらいなので忙しくはない。新たな刺激が欲しいというのも事実だった。
「そう決まったら善は急げという。信乃も準備を急げ」
師匠の山東京伝も賛同してくれたらしく、売って旅の駄賃にしろと書物を持たせてくれた。大きな期待をかけてもらっているのだと知り、胸が熱くなる。
彼の伝手で太田南畝の紹介状までもらって予算は潤沢にある。
ありがたい限りだった。
「信乃、旅はよいものじゃ。久しぶりに外の世界に出られるとは楽しみじゃのう」
脳内彼女ことのじゃロリさまがコロコロ笑う。彼女は徳川のお姫様だからこうして世間のことを知るのが楽しみなのだろう。
「のじゃロリさま、俺も最近は退屈していたからワクワクするな」
曲亭馬琴が結婚し、俺の元を離れ、戯作者としても名を上げつつあった。そんな中久しぶりに友人としてともに過ごすことができるのは嬉しい。
一応友達だしな。
「しかしお金だけは大事にするのじゃ」
「心配性だなあ」
東海道中膝栗毛に触発された旅行ではあったが、夜盗だけには気をつけなければ。
俺たちもともと貧乏にだから盗まれる心配があるものは山東京伝師匠の書画だけだったが。
「しかし遠いな」
さっそく歩き始めて数刻。曲亭馬琴の口から文句が出る。普段家に引きこもって文筆業に勤しむだけなので、体力がない。
俺たちがいた深川からまずは品川に向かった。宿場町として有名な川崎の奈良茶飯を食したのは東海道中膝栗毛の弥次さん、喜多さんに影響された結果だ。
「芸は盗むものだという。あの十返舎一九の書いた内容だと、品川から箱根までの旅路だった。我々はその先を行くつもりだ」
意外と曲亭馬琴は彼のことを意識しているようだった。それに松尾芭蕉も旅を人生に例えたように、旅とは人間一度はしておきたいことの一つだ。
「相変わらずの負けず嫌いじゃのう。まあそれが馬琴のよいところじゃが」
のじゃロリさまは俺に背負われ、のんびりとした口調でつぶやく。かわいいが、重い。
「まったく信乃はれでぃに失礼じゃのう」
思っていることが伝わったのかぴしゃりと叱られる。
人生は重い荷を背負っていくようなもの、俺は自分に言い聞かせる。
「まずは戸塚で宿泊する予定だ。それまでは歩くだけだな」
こちらもそうカッコつけているが、彼は甘味好きで、行く先々でお茶を啜り、菓子を頼む。こっちにも予算ってものがあるんだよ。
「ねえ草履は無事かな」
「まだまだ大丈夫だ。案ずるな信乃」
見た目は馬琴の方が年上だが、俺も世間的には大柄な方なので目立つ。
まさに弥次さん、喜多さんみたいに見えていないが心配だ。
「金なら師匠の書画を売ればどうにかなる」
しかしその荷物も俺にほとんど持たせているし、これから先が不安だ。
「旅をするとその人の本性がわかるっていうけど本当かな」
「可愛い子には旅をさせよという。苦労すると人の真の姿がわかるというのは確かに一理ある」
俺がぼやくと真面目に曲亭馬琴が返してくる。
この人偏屈だけど一応素直なんだよな。
「あと俺たち二人でいると目立つからうまい言い訳があるといいんだけど」
「それなら友人でいいだろう」
世間的にはそうはいかない。男二人で気楽な旅だが、旅籠に泊めてもらうにもわかりやすい関係が必要だろう。
「では親子はどうだ」
俺がでかすぎて信ぴょう性に欠ける。
「だったら兄弟でよかろう」
確かに血のつながりはないが、お兄さんから世話は頼まれていたし、それがよさそうだ。
「長い間一緒にいたから関係などと言われてもすぐに思いつかないな」
少しおかしそうに笑う。俺もそれは同感だ。
「上方に着いたらまずは井原西鶴の墓参りだ。やはり先人には敬意を表さないとな」
まだ始まったばかりの旅の先の話をする。
この人の先走る性格が彼らしくて俺は小さく笑った。
「さすがにそれは急ぎすぎじゃない? 旅を楽しもうよ」
俺たちが東海道を進み、たどり着く先までまだ時間はある。
これから先に思いを馳せ、一歩一歩踏みしめる。
その晩戸塚にたどり着き、旅籠に一泊した。
俺たちは飯盛女がいる遊興目的の旅籠ではなく、普通の宿で夕食をとる。
焼き豆腐、切り干し大根、塩ほらが出され、やや豪勢な食事だった。
ステーキとか刺身とか食べたいけど今は江戸時代だしな。
味は滋味あふれ美味しかった。
「しかし近くの本陣にも参勤交代で大名が来ているようだ。明日は気を付けるぞ」
その晩、明日の旅路の確認と、周囲から得た情報をまとめ、俺たちは眠りにつく。
最初のうちは順風満帆にも思えるほど穏やかな旅だった。
「こうしていると深川の長屋で暮らしていたことを思い出すな」
俺たちが作家を目指した原点。あの頃の貧しいながらも楽しかった日々を思い出す。今はお互いヒット作こそないものの作家として生活できている。
漫然と暮らしているように思えたからこそ曲亭馬琴は旅を提案してきたのだと思った。
「長いこと一緒にいるけど、あの頃を忘れないでいたいな」
ぽつりとつぶやくが返事はなかった。
どうやら寝ているみたいだ。
「信乃も早く寝るのじゃ」
むにゃむにゃとのじゃロリさまが呟く。
「おやすみ」
もう寝よう。懐かしさがこみあげてきて不思議な気分だった。
上方旅行の始まりは穏やかなものだった。




