第7話:共犯
自分はノワール。
彼女、ルージュの前では少なくともそう名乗っている。
本名は過去に置いてきた。
職業は狩人だった。
あの日、妻子を殺されるその日までは。
正直に言えば、この年端もいかぬ少女を『復讐者』として塗り潰していくことに、何ら抵抗がなかったわけではない。
唯一の家族を奪われたばかりの彼女に対し、自分が迫った選択肢はあまりに冷酷だ。
『狼』をこの手で殺す。
ただ、その目的のためだけに、
自分は彼女を飼い慣らしているのだから。
衣食住を与え、
銃火器の扱いを叩き込み、
命を奪うための術を日夜、教え続けている。
すべては彼女の瞳に焼き付いた『狼』の記憶と、その視覚情報を利用するためだ。
自分にとって彼女は、家族を奪った怪物への――
言わば「鍵」に過ぎないはずだった。
だが、この少女との日々は、自分の計画を少しずつ侵食している。
朝、銃を磨く彼女の背中を見ているとき。
夜、わずかに震える彼女の呼吸を確かめるとき。
自分はまだ、この生活が持つ意味の深さに気づいていない。
あるいは、気づくことを恐れているのかもしれない。
かつてヴァイオレットとイリスを失ったあの日、自分の人生は終わった。
しかし今、こうして誰かのために獲物を狩り、誰かのために銃を教えるという行為が、止まっていた自分の時間を強制的に動かしている。
護るべき存在がいるということ。
それが、泥水をすするようなこの復讐の旅において、自分を生かし続けている唯一の理由になっている。
……たとえそれが、彼女を深淵へと引きずり込む共犯関係だとしても。
彼女との生活が、
家族と過ごした日々をなぞり続ける行為と紙一重だということは、決して気づいてはならないという自制と葛藤。
しかしながら、
自分はただ、紅い頭巾を被った小さな背中が、決して壊れないようにと願うことしかできないのだ。
その背中に、届かぬ声で「おやすみ」と告げることしか今の自分にはできやしなかったのだから。
◆
ルージュが12くらいの時のこと。
その日、
森の朝は静かだった。
鳥の声も、風が木々を撫でる音も、すべてが遠くで鳴っている。
自分にとって森は、かつてはただの生活の場だった。
だが今は違う。
ここは、自分が奪ってきた命の重さを、その手触りで思い出すための場所だ。
「止まれ」
前を歩いていたルージュが、小さな身体を硬直させる。
その視線の先、藪の奥からゆっくりと現れたのは、一頭の子グマだった。
まだ幼い。黒い毛並みも、身体つきも、成獣には程遠い。
ルージュの指が、猟銃から離れる。
「……子ども」
その声には、復讐の対象ではない「命」に出会った安堵が混じっていた。
「先生、撃たなくても……」
ルージュは銃口を下げる。逃がせばいい。そう言いたげな瞳。
優しい考えだ。かつての自分なら、迷いなく同じことを考えたかもしれない。
だが。
「駄目だ」
「……え?」
自分の冷徹な宣告に、ルージュが振り返る。
自分は子グマから視線を逸らさず、言葉を継いだ。
「コイツは親を呼ぶ。親は近くにいる」
「……でも」
「気が立っている」
ルージュの顔から、少しずつ血の気が引いていく。彼女はまだ知らない。この森の中では、善意という名の迷いが、そのまま死への直結であることを。
「子どもを守るためなら、親は何でもする」
「……」
「殺らなきゃ殺られるのは、こちらだ」
静かな声で告げる。脅すつもりはない。ただ、この過酷な事実を突きつけることこそが、彼女を生き残らせる唯一の道だと信じているからだ。
ルージュは銃を構える。小さな肩が震えている。
銃身の重さに耐えているのか。それとも、これから奪う命の重さに耐えているのか。
「狙え」
「……」
「呼吸を整えろ」
「先生……」
「目を逸らすな」
ルージュの瞳が揺れる。引き金にかかった指が、微かに震えた。
できない。当然だ。ついこの間までただの少女だった人間が、今日から死神になれるはずがない。
それでも、自分は彼女に銃を持たせた。あの男を追うために。簡単にあの『狼』に彼女の命を奪わせないために。
「……無理です。撃てません」
その瞬間、森の奥から地を這うような低い唸り声が響いた。
遅かった。
自分は銃を構える。迷いはない。
一発。乾いた音が森を裂いた。子グマの身体が崩れ、崩落する。
静寂が戻った。ルージュは凍りついたように動けない。
自分は銃を下ろし、子グマへと歩み寄る。その小さな身体を見下ろす。まだ、温かい。小さな命だった。
「……」
言葉は出ない。出したところで何も変わらない。
自分は膝をつき、そっと目を閉じる。
許しを乞う資格などない。
だが、忘れないために。
奪った命が、単なる数字として処理されないために。
背後で、ルージュが息を呑む音が聞こえる。
「先生……」
返事はしなかった。
今、一番受け付けないのは、この瞬間だった。
銃を握ることでも、獲物を仕留めることでもない。
命を奪った直後に、平然と次へ進めてしまう自分自身という存在そのものが。
だから、自分は背を向ける。
ルージュに見せるためではない。自分自身が、この重さを決して忘れぬように。
「帰るぞ」
それだけを告げた。
紅い頭巾の少女はその目に涙を溜めたまま何も言わず、泥にまみれた自分の背中を追ってきた。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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