第3話:契約
泣いている暇なんてなかった。
いや、正確には泣いている時間は無駄だと切り捨てられた。
「ルージュ、生きたいか」
「……?」
「生きることを望むなら、今すぐ泣きやんで、話を聞け」
先生――
ノワールは、祖母を失ったばかりの私を慰めるどころか、冷淡なまでの事務的な口調で、今後の道筋を突きつけた。
「自分は君に、生きる術を教える」
「生きる、すべ……?」
「そうだ。君は今や、行き場のないみなしごだ。孤児院に放り込むのが慈悲かもしれないが、自分には君のその『記憶』が必要だ」
「記憶……?」
「今まで、あの『狼』の顔を拝みながら、生きて帰ってきたものはいなかった。お前がその目で見てきたもの、感じたこと、奴のすべてを、自分に教えろ。
自分は奴を今すぐにでも殺したい。
妻と娘の命を、あんな無惨なやり方で奪い去った獣を、この手で」
その言葉と同時に、私の脳裏に鋭い頭痛が走る。
奥歯を噛み締め、記憶の深淵を覗き込む。
思い出そうとすると、決まって、あの男の輪郭が、揺らめきながら浮かぶ。
顔立ちも、正確な色も、はっきりとは像を結ばない。まるで、水面に映った景色を覗き込むように、歪み、揺れて、掴めない。
それでも――金色をした、何か。
澄んだ色をした、瞳のようなもの。
鼻腔の奥に残る、甘い香りの記憶だけは、
消えずに残っている。
核心に触れようとするたび、頭が割れるように疼く。
だが、視線を上げれば、目の前には氷のような先生がいた。
彼はただ銃を整備し、冷徹に私の返事を待っている。拒絶という選択肢など、端から存在しないかのように。
彼は私を救ってくれたのではない。
私の「記憶」という唯一の武器を最大限利用し、それを復讐の弾丸に変えるために、生かしておいたのだ。
その目の奥に揺れる、家族を喪った者の深い絶望と、狂おしいほどの執着。
私は理解した。
この人は、私の痛みを理解してはいない。
だが、私と同じ地獄の住人であることだけは、確かだ。
「……分かったわ」
私は震える手で、紅い頭巾を深く被り直した。
「私の目と記憶をあげる。
その代わり、アイツを見つけ出したその時は必ず、奴を地獄の底へ突き落として」
「ああ、約束しよう」
部屋には、銃を磨く金属音だけが響いていた。
私は人間をやめた男に、自分の未来を預けた。
そしてその日から、私自身もまた、人間であることを少しずつ手放していった。
◆
寝ても覚めても、そこには銃声と火薬の匂いしかなかった。
狩猟。そして手入れ。
私の世界は、先生の背中を追いかけることだけで埋め尽くされていく。
「まずは生きること。そのためには食べること。食べるためには、生命をいただくことだ」
先生の言葉は簡潔だ。
彼にとって狩猟とは、感情の入り込む余地のない、しかし最も神聖な儀式だった。
――ダーンッ。
乾いた銃声が森に響き、野ウサギが草むらに崩れ落ちる。
先生は獲物に駆け寄ると、まるで壊れ物を扱うように、その小さな骸を両手で丁寧に掬い上げた。
銃を向ける時の冷酷な眼差しとは別人のような、祈るような仕草。
彼は獲物の体温が失われるのを待つように、じっと動かない。
ある日のこと。
私が猟銃を持ち上げるだけで息を切らしていると、先生が独り言のように呟いた。
「……重たいか」
視線を落とした私に、先生が声をかける。
猟銃は、私にはあまりにも重すぎた。
「……はい」
「それが、命を奪う道具の重さだ。決して、忘れるな」
彼はそれだけを言うと、再び獲物の血の匂いを追うように、鋭い視線を森へと走らせる。
私は重い銃を握り直し、泥にまみれながらその背中を追う。
かつて命を奪われた誰かが歩いたかもしれないこの道を、私は今日も歩く。
先生の弟子として。
銃の重さに慣れる日が来るのかなんて分からないままに。
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