第2話:【例外】
先生は語らない。
だが、その背中がすべてを物語っている。
彼が纏う死の気配は、私よりもずっと濃い。
彼がかつて大切にしていたもの——
妻のヴァイオレットと、娘のイリス。
あの日、先生が帰宅したとき、キッチンには食欲をそそる芳醇な香りが漂っていたという。
「……信じられた。いつもの食卓の風景が、そこにあると」
先生は一度だけ、酒に酔った夜にそう呟いた。
中身を知らずに鍋の蓋を開けたとき、目に飛び込んできたのは夕食の情景ではなく、母娘でお揃いの髪飾りだった。
赤茶色のスープの中で、
それはまるで、愛する者たちが溶け出しているように見えたという。
先生は、その場で嘔吐した。
耐え難い臭気と、内側からせり上がる拒絶。
洗面所へと駆け込む彼の視界に、バスルームのドアが映る。
その先に、何があったのか——
先生は、それ以上、語らなかった。
ただ、鏡にだけは、赤黒い血で、
こう書き殴られていたという。
『お父さん、お仕事お疲れ様でした。どうだった? 大好きな人たちのお味は?』
その瞬間、先生の中で何かが死んだ。
人間としての情愛、日常への希望。
それら全てを自分は自ら引き裂き、
ただ「狼を殺すための機械」へと身を堕とした——そう、先生は言った。
「……ルージュ」
ふと、先生が私を呼ぶ。
彼は、私が「鏡」を見て怯えた夜、一度も目を逸らさなかった。
鏡の中の血文字と、私の記憶の奥に潜む『シエル』の残像。
彼はその両方を、自らの瞳に焼き付けている。
「狙いを定める時は、相手が獲物を狙う時だ」
先生の声は、凍りついた刃物のように静かだ。
人間であることをやめた彼の手は、
迷いなく銃の安全装置を外す。
私もまた、紅い頭巾を深く被り直す。
人間などというものは、とっくにあのスープと共に飲み込んでしまった。
次は、私たちが「狼」の晩餐を作る番だ。
聖者の仮面を剥ぎ取り、その喉元に、最高の絶望を叩き込んでやる。
◆
森の草むら。泥と血にまみれ、死を待つだけの私を見つけたのは、彼だった。
私を見るなり、彼の瞳から色が消えた。
「……っ! イリス!!」
名前を呼ばれた気がした。
それは私を呼ぶ声ではなく、彼が過去に置き去りにしてきた誰かの名。
その一度きりの、悲痛な叫びが、途切れかけた私の意識を、現実に引き戻す。
「…………っ、だぁれ……?」
掠れた声。
私の喉から漏れた音に、彼はハッと息を呑んだ。
凍りついていた彼の表情に、初めて、熱が宿る。
「……生きてたんだな。……本当に、生きてたんだな」
その、低く、どこか震えた安堵の響きを聞いた瞬間、私の意識は糸が切れたように、再び深淵へと沈んでいった。
◆
目覚めたとき、そこには見知らぬ天井が拡がっていた。
夕暮れの延長線上なのか、あるいは深い闇の底なのか。時間の感覚など、とっくに失われていた。
記憶が、ひどく曖昧だった。
「目覚めたか。ここは自分の私室だ」
傍らで銃の手入れをしていた男が言った。
私は弾かれたように身を起こそうとして、激しい頭痛に顔を歪める。
「ここは……私は、一体?……おばあちゃんっ!!おばあちゃんは、どこ!?」
問いかけに対する答えは、彼の静かな首振りだった。
言葉にせずとも、すべてを理解せよという、無慈悲な通告。
「『狼』は、狙いを定めた獲物を、皆殺しにする」
その残酷な宣告と同時に、私の脳裏に、あの日の「スープ」の芳醇な香りが蘇った。
内側からせり上がる拒絶。私は口を両手で覆い、床に蹲る。
「君の名は?」
淡々とした、冷たいほどに平坦な声。
「……ルージュ。私はルージュよ。
……あなたは?」
「自分はノワール。奴を追っていた。そこで、君を見つけたんだ。【例外】をね」
「例外……?」
「ああ。奴は、狙った獲物を生かしておくような真似はしない。これまで一人として、例外はいなかった。だが君は今、生きている」
先生は銃口を磨き上げ、私を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、かつて私を地獄へ突き落とした『狼』の首を求める、鋭利な飢餓感が宿っている。
「ルージュ、自分には君のその目と記憶が必要だ。奴の正体、その仮面を暴くために」
それが、私たち二人の誓い。
共に地獄の淵を歩く、復讐という名の契約だった。
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