第39話:輪郭
「なるほど。この場では手を出さないらしい」
告解室を後にしたノワールは、大聖堂の門扉をくぐる時に独りごちていた。
それはそうか。
当然だな。
自分の他にもまだ、告解室の前に列をなしている信徒が何名かいるようだ。人目のある場所で、獲物を仕留めるほど迂闊な男ではないということだろう。
ひとまず、招待状は受けとった。
夜の部、どんな顔を見せるのか。
それにしても、先ほどの彼の者の声は、
揺らぎが一切なかった。
常に凪いでいる。澱みも何もない。
まるで本当に神の使いのようではなかったか。
だから、人々は安心して『差し出す』のだ。
今まで誰にも預けることの出来なかった荷物を。
自分もまた、その一人として、あの格子の向こうに向かって言葉を紡いだ。
獣を撃った時の、あの目のことを。
あれは、演技ではなかった。
少なくとも、半分は。
妙な話だ。
嘘をつくために、本当のことを差し出す羽目になった。
だが、そうでもしなければ、
あの男は見抜いただろう。
声の震え、目の泳ぎ、間の取り方――
獣の僅かな違和感を見抜いて生きてきた自分だからこそ分かる。
あの手のことを見逃す人間ではない。
だから、本物の傷を餌にした。
それが、正しい判断だったのかどうかは、まだ分からない。
懐に、あの臙脂色の聖書がある。
夕暮れの通りを歩きながら、ノワールはそれを一度取り出し、掌の中で確かめた。
ただの聖書には見えない。
表紙の内側、目立たない場所に、細い文字で何かが記されている。
時刻。場所。
招待の詳細は、あくまで教会の作法に則った体裁を取っていた。
信徒への配慮、丁寧な導き――
そう装いながら、その実、獲物を呼び寄せる罠の作法でもある。
馬鹿げている。
だが、この馬鹿げた作法に、何人もの人間が、疑いもなく足を踏み入れてきたのだろう。
ノワールは、聖書を懐に戻した。
残るは、夜だけだった。
懐の臙脂色の聖書が、歩みに合わせて僅かに胸元を打つ。
狩る者と、狩る者。
そのどちらが獲物になるのかは、まだ誰にも分からない。
◆
案内も待たず、ノワールは階段を上がった。書架だらけの部屋の扉を、迷いなく押し開ける。
中では、ルージュが椅子の縁に座ったまま、身を固くして待っていた。セヴランは机に向かい、ペンを止めて顔を上げる。
「――先生」
ルージュが立ち上がりかけ、そのまま、大きく息を吐いた。強張っていた肩から、目に見えて力が抜けていく。安堵が、隠しようもなく滲み出ていた。
セヴランは、ノワールの様子を一瞥し、静かに言った。
「無事、戻ったか」
「ああ」
「――すぐにどうこうなる訳ではない、ということみたいだな」
「ああ、だが」
ノワールは、懐から臙脂色の聖書を取り出した。机の上に、それを置く。
「これを、受けとった」
セヴランが、それを手に取る。
表紙をめくり、中を検めた。
教区の紋章、丁寧な装丁。
ごく普通の、聖書としての体裁を保っている。
だが、その頁の間に、一枚の紙片が挟まれていた。
セヴランが、それを抜き取り、蝋燭の灯りに翳す。
几帳面な、けれど流れるように整った筆致で、こう記されていた。
――今夜、十二時に。
誰にも知られぬよう、同じ場所でお待ちしております。
部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。
ルージュが、その文字を覗き込み、喉を鳴らす。
「……本当に、来いって」
「ああ」
ノワールは、感情の見えない声で応じた。
「向こうも、確かめたいことがあるんだろう。俺が、本当に獲物なのか。それとも」
言葉を切り、彼は聖書を見つめる。
「別の何かなのか」
セヴランが、紙片を丁寧に折り畳み、記録簿の間に挟んだ。
「十二時か」
彼は、窓の外に目をやる。まだ、夕暮れの名残がわずかに空に残っていた。
「時間はある」
それだけ言うと、セヴランは、机の引き出しから、また別の資料を取り出し始めた。
セヴランが取り出した古い記録簿の頁が、蝋燭の風で静かに揺れた。
その頁には、過去の犠牲者たちの名前が並んでいる。
記録簿の最後の空白だけが、蝋燭の光の中で静かに残っていた。
◆
夜半近く、街は完全に寝静まっていた。
通りに灯る明かりはまばらで、ノワールの足音だけが、石畳の上に硬く響く。吐く息も見えないほどの寒さではなかったが、肌に触れる空気は、昼間とは違う密度を持っていた。
懐には、あの臙脂色の聖書がある。
セヴランは、路地の陰から、遠く大聖堂の輪郭を見張っていた。約束の刻限を過ぎても出てこなければ、教会法だろうと何だろうと踏み込む――その一言だけを、彼はまだ律儀に守るつもりでいるらしかった。
ルージュの姿は、ない。
「今夜ばかりは、駄目だ」――
その一言に、彼女は結局従った。
従わせた、というのが正確かもしれない。
何度も食い下がろうとする彼女を、ノワールは短い言葉だけで押し留めた。
大聖堂の輪郭が、闇の中に迫り上がってくる。
昼間、あれほど多くの信徒で賑わっていた場所とは思えないほど、今は静まり返っている。尖塔の先端だけが、雲の切れ間から漏れる月光を受けて、鈍く白く浮かび上がっていた。
正面の扉には鍵がかかっている。だが、脇の小さな通用口は、僅かに開いていた。
まるで、待っていたかのように。
ノワールは、その隙間に手をかけた。
軋む音もなく、扉は滑らかに開く。油でも差してあるのか、あるいは、頻繁に使われている証か。
内部は、闇に沈んでいた。
昼間、光に満ちていたステンドグラスも、今はただの黒い硝子として、月の光をわずかに透かすだけだった。祭壇の輪郭が、遠く、影の中に浮かんでいる。
空気が、重い。
乳香の残り香が、鼻の奥にわだかまっている。誰もいないはずの堂内に、まだその香りだけが生きているようだった。
足音を殺す必要は、ないはずだった。招かれた客なのだから。
それでも、ノワールの足は、自然と静かになった。
側廊を進む。告解室の並ぶ一角――
昼間、あれほど多くの信徒が列をなしていた場所も、今は闇に沈み、扉の輪郭さえ判然としない。
その一つの前に、人影があった。
黒いキャソックを纏った、細身の輪郭。
昼間の白と金の祭服ではない。
夜の色に、完全に着替えている。
月光が、僅かにその横顔を照らした。
いつもと変わらぬ、穏やかな微笑み。
「――お待ちしておりました」
声は、囁くように低かった。だが、その中に潜む響きは、昼間の柔らかさとは、どこか質が違って聞こえた。
ノワールは、足を止めた。
二人の間に、静寂が横たわる。
「誰にも、知られないで来られましたか?」
問いは、優しかった。まるで、秘密を分かち合う友のような口調で。
だが、その言葉の底に、確かに何かが潜んでいる。この問い一つで、相手の警戒の質を測ろうとしている――そんな気配が、微かに滲んでいた。
ノワールは、その視線を、正面から受け止めた。
「元々、独り身だ」
短く、それだけを返す。
告げられた答えに、セラファンは――いや、その輪郭は――僅かに口の端を上げた。
「そうですか」
その声には、満足そうな響きがあった。
闇の奥で、扉が一つ、静かに開く音がした。
その隙間から漏れ出た空気に、乳香の香りが、これまでとは比べ物にならないほど濃く滲んでいた。
まるで、何かを覆い隠すように。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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