第38話:招待
土曜日、15時半過ぎのこと。
告解室へ向かう道すがら、先生が、ふと足を止めた。
「自分にはもう、何もないからな」
前を向いたまま、独り言のように言う。
「……だけどお前は違う。まだ未来がある。ルージュ」
その声には、諦めにも似た静けさがあった。
私は、思わず、先生の腕を掴んだ。
「先生、冗談でもそんなこと言わないで」
声が、震えた。目の端には涙が滲みかけている。
「私が、あなたの弟子が――
待ってるでしょ、ここで!!」
先生は、振り返らなかった。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、短く。
「――ああ」
それだけだった。
振り返らないまま、彼は片手だけを、私の方に向けて軽く振った。
行ってくる、というつもりなのか、心配するな、というつもりなのか。
その手の意味を、私はまだ、正確には読み取れなかった。
先生の背中が、大聖堂の入り口へと吸い込まれていく。
私は、その場に立ち尽くしたまま、ただ見送ることしかできなかった。
振り返ると、夕日が、燃えるような赤だった。
街も、教会の尖塔も、私の影さえも、全てをその赤の中に塗り潰していく。
いつもなら、綺麗だと思えたはずのその色が、今日だけは、ひどく不吉に見えた。
◆
格子の向こうに、小さな窓がある。
そこから差し込む夕日が、告解室の中を橙色に染めていた。
まぶしい。
セラファンは、目を細めながら、格子越しの人影を見つめる。
いつもと変わらぬ、静かな午後の一角。
だが、この客には、どこか他の信徒とは違う空気があった。
言葉数が少なく、けれど、神経の張り詰め方が違う。
まるで、獲物を見定める猟師のような
――ああ、そうか。
この男は、狩人だ。
「懺悔したいことがある」
低い声。
落ち着いてはいるが、
感情を殺している質の声だ。
男は、一拍置いてから、続けた。
「爪の間に、血がこびりついて取れないことがある。
何度洗っても、擦っても、
消えない気がする時が」
セラファンは、黙って耳を傾ける。
「撃った瞬間、獲物の瞳から、何かが抜け落ちる。魂と呼ぶのかもしれない。
空洞になる。それでも――
その目は、こちらを見つめ続けている。
何日経っても、瞼を閉じても、あの目だけは、消えない」
男の声には、感傷はなかった。
ただ、事実を淡々と並べるような口調だった。それがかえって、その罪の重さを際立たせていた。
「命を奪うことに、慣れてしまった自分がいる。慣れてしまったはずなのに、あの目だけは、いつまでも慣れない」
ありふれた告白だった。
狩人や肉屋、あるいは戦を経験した者から、幾度も聞いてきた種類の罪だ。
セラファンは、いつも通りの柔らかな声で応じる。
「命を糧とすることは、神が人に許された営みの一つです。
それでもなお、心を痛めることができる――
それ自体が、あなたの誠実さの証でしょう」
定型の言葉。
何百回と繰り返してきた、慰めの型。
だが、格子の向こうの気配は、それだけでは終わらなかった。
「――もう一つ、ある」
男の声が、少しだけ低くなった。
「近頃、街を騒がせている『狼』の噂は、知っているか」
「ええ、存じています」
「あれを、仕留めたいと思っている自分がいる。自分と同じ『人間』かも知れないのにだ」
セラファンの、
内側の何かが、微かに揺れた。
面白い。
いつもの言葉とは、違う質のものだ。
動物を殺す罪の告白の延長で、
人ならざるものを狩る意思を語る――
偶然にしては、出来すぎている。
あるいは、ただの正義感に燃えた愚か者かもしれない。
あるいは。
この男自身が、既に何かを掴みかけているのかもしれない。
どちらでも、構わなかった。
むしろ、後者であるならば、なおのこと。
呼んでやるのも、一興だ。
「それは、立派な志ですね」
セラファンは、微笑んだ。
格子の向こうからは、その表情までは見えないはずだった。
それでも、彼はいつも通り、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
演技ではなく、これもまた、彼にとっての"本気"だった。
「もしよろしければ――
もう一度、私の元にいらしてはいかがでしょう。
狼について、少し、詳しい話ができるかもしれません」
彼は、懐から一冊の臙脂色の聖書を取り出す。
教区の紋章が押された、正式な招待の証だった。
「今夜、遅い時間に。誰にも邪魔されず、お話しできる場所があります」
その本が、格子の隙間から差し出される。
男の指が、それを受け取った。
夕日が、その一瞬だけ、二人の指先を同じ色に染めた。
――さて。
告解室の外で、次の客が待つ気配がする。
セラファンは、いつものように、その顔に慈愛に満ちた笑みを浮かべたまま、次の"客"を出迎える準備をした。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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