第40話:晩餐
告解室の中は、狭く、そして暗かった。
格子越しではない。今夜は、同じ小部屋の中に、二人だけがいる。蝋燭が一本、二人の間に置かれていた。
「狼の話、聞かせてくれるんだろう」
ノワールが、口を開いた。
「ええ、勿論です」
セラファンは、微笑んだまま、傍らに置かれていた小さな盆を引き寄せる。湯気の立つ杯が、二つ。
「その前に、少し温まってください。夜は、まだ冷えます」
差し出された杯を、ノワールは受け取った。躊躇いは、なかった。むしろ、これを飲まなければ話が進まないことは、初めから分かっていた。
香草の匂いが、鼻先をかすめる。
一口、含む。苦みの奥に、微かな甘さがある。
「――で。狼について、何を知っている」
ノワールは、杯を傾けながら、問うた。
「随分と、話が早いですね」
セラファンは、楽しげに目を細める。
「知っていることは、多くあります。あなたが知りたいと思っている以上に」
「なら、一つ聞かせてくれ」
ノワールの声は、いつも通り平坦だった。だが、その奥に、探るような響きがある。
「なぜ、狼は暫く大人しかったのだろうな」
その問いに、セラファンは、くすりと笑った。
「簡単ですよ」
彼は、杯を口元に運びながら、こともなげに答える。
「四旬節だったから」
あまりにも軽い口調だった。まるで、天気の話でもするような。
ノワールの中で、何かが警鐘を鳴らした。
だが、その警鐘は、既に遅かった。
視界が、僅かに滲む。
蝋燭の炎が、二重に見える。
「――貴様」
声を出そうとして、舌がもつれた。手にした杯が、指先の感覚とともに、遠くなっていく。
セラファンは、その様子を、静かに見つめていた。目の中に、これまで見せたことのない色が浮かんでいる。
愉悦。
隠す必要のない、剥き出しの愉悦。
「ああ、良い飲みっぷりでした」
声が、水の中で聞くように歪んで届く。
「――もう、貴方は」
その先は、聞こえなかった。
ノワールの意識は、そこで、完全に途切れた。
◆
大聖堂の外、路地の暗がりで、セヴランとルージュは並んで壁に背を預けていた。
中の様子は、何も分からない。物音一つ聞こえない、分厚い石壁と、閉ざされた扉の向こうに、先生がいる。
沈黙が、長く続いていた。
セヴランが、ふと口を開いた。
「あの男の、娘というわけではないんだろう」
唐突な問いだった。ルージュは、一瞬、意味を掴みかねて瞬きをする。
「違います。先生です」
「何の」
「――生きていくことの」
その答えに、セヴランは、僅かに眉を上げた。それ以上は、何も言わなかった。ただ、続きを促すように、視線だけを向けている。
「もう、十年ほど、弟子をやっています」
ルージュは、大聖堂の暗い輪郭を見つめたまま、続けた。
「……私がそう思ってるだけかも、知れませんけど」
声の端に、小さな不安が滲んでいた。
セヴランは、しばらく黙っていた。夜の冷気の中、彼の吐く息だけが、白く見えては消えていく。
「そうか」
それだけ言うと、彼は、また大聖堂の方へと視線を戻した。
二人の間に、また沈黙が落ちる。
セヴランは懐中時計を一度だけ開いた。
まだだ。
石壁の向こうで、何が起きているのか、誰にも分からないまま――
ただ、時間だけが、静かに過ぎていった。
◆
石造りの階段が、闇の奥へと続いていた。
大聖堂の床下、誰も足を踏み入れることのない場所。
かつては聖遺物を納めるための空間だったのだろう、壁には古い聖人像の欠片や、朽ちた燭台が並んでいる。
その中央に、簡素な卓が一つ、据えられていた。
卓の上には、白い皿。湯気を立てる、丁寧に焼かれた肉の塊。傍らには、深い赤の液体で満たされたグラスが、蝋燭の灯りを受けて鈍く輝いている。
シエルは、その卓の前に、寛いだ様子で腰を下ろしていた。
黒いキャソックの襟元を緩め、ナイフとフォークを手に取る。所作そのものは崩れていないが、纏う空気はまるで違う。肩の力が抜け、口元には、隠す必要のない笑みが浮かんでいた。
一切れを口に運び、彼は目を細める。
美味い。
噛みしめるほどに、肉の旨みが舌の上に広がっていく。丁寧な下拵え、程よい火加減。誰に見せるでもない、けれど自分自身が誇りを持って仕上げた一皿だった。
グラスを傾け、ワインを一口。芳醇な香りが、鼻を抜けていく。
「――んー、美味い」
小さく、満足げな声が漏れた。
卓の脇、影の中に、ノワールの姿があった。
両手を後ろ手に縛られ、壁際に力なくもたれている。意識は、まだ戻らない。呼吸だけが、規則正しく上下していた。
シエルは、その様子を一瞥し、また肉に視線を戻す。
「もうちょい待っててね」
誰に向けるでもない、独り言のような口調だった。
「アンタの分は、また今度な」
冗談とも本気ともつかぬ響きで、彼はそう零す。
ナイフが、また肉を切り分ける。銀色の刃が、蝋燭の灯りを反射して、一瞬だけ、鋭く光った。
地下室に響くのは、食器の触れ合う、小さく上品な音だけだった。
どこか遠くで、教会の鐘が、静かに時を告げていた。
鐘の音が、七つ、地下室の壁を伝って響いた。
シエルは、その残響が消えるまで、じっと耳を澄ませていた。
ふと、視線が、壁際のノワールへと向く。
規則正しい呼吸。
閉じたままの瞼。
まだ、しばらくは目覚めない。
彼は、ナイフを置き、椅子から立ち上がった。ゆっくりとした足取りで、ノワールの傍らに歩み寄る。
屈み込み、その顔を、しげしげと覗き込んだ。
「――さぁてと、」
声には、抑えきれない愉しさが滲んでいた。
「目が覚めたら、何を話そうかな」
指先が、ノワールの前髪に、そっと触れる。優しく、まるで壊れ物でも扱うような手つきで。
「アンタ、随分と面白いこと、隠してそうだもんね」
その呟きは、誰にも届かないまま、闇の中に溶けていった。
シエルは、立ち上がり、また卓へと戻る。
残ったワインを、グラスの底まで飲み干した。
その口元に浮かぶ笑みは、これから何が起きるのかを、既に知っている者だけが持てる、あの静かな高揚に満ちていた。
蝋燭の炎が、
一際大きく揺れて――
また、元の穏やかな灯りに、戻った。
↑画像はシエルをイメージしています
後書き
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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