第36話:推定有罪
その日の夕方、先生の元に、セヴランからの言伝が届いた。
夜24時、庁舎へ来てほしい――
それだけの、素っ気ない一文だった。
「俺一人で行く」
先生は、それだけ言うと、上着を羽織った。
「私も行くわ」
「お前はここにいろ」
「嫌よ」
私は、先生の前に立ち塞がった。
「私だって、おばあちゃんの仇を取りたい。先生だけを行かせるつもりはない」
先生は、しばらく私を見下ろしていた。
何か言いかけて、けれど、やめた。
これまでの私なら、きっとここで引き下がっていた。
でも、もう違う。
あの日、ローズさんの家で見たもの、聞いたもの――
全てを知ってしまった私は、
もう、ただ守られているだけの立場ではいられなかったのだから。
「……好きにしろ」
先生は、短くそう言うと、先に歩き出した。
私は、その背を追った。
◆
深夜の判事庁舎は、昼間とはまるで違う顔をしていた。
誰もいない廊下に、足音だけが反響する。
案内も待たず先を歩くセヴランの背に、先生と私は黙ってついていった。
地下へ続く階段を降りると、
空気が変わる。
カビと、古い紙の匂い。
長年誰の手にも触れられなかった書類が、湿った暗闇の中で静かに朽ちていく――
そんな匂いだった。
資料室の扉を、セヴランが開ける。
中は、蝋燭一本の灯りだけだった。
壁一面の棚には、判読も難しいほど古びた記録簿が積まれている。彼はその一つを机の上に運び、蝋燭を近づけた。
炎が、揺れる。
三人の影が、壁に伸びて、歪んで、また戻る。
「こんな時間に呼び立てて、すまない」
セヴランの声は、いつもより低かった。
「これは、私の推測でしかない。証拠には、まだ、ならない」
彼は、記録簿を開いた。
被害者の名。日付。曜日。
メアリ。……ヴァイオレット。イリス。アンブル。…………ポール。テオ。ルーシー。
両手では数え切れないほどの名前。
その全てが、几帳面な筆致で、時系列に並んでいる。
「この記録を、何度も見返した」
セヴランの指が、日付の欄をなぞる。
「被害が出るのは、決まって週末だ。土曜の夜から、日曜未明にかけて」
彼は、次に別の頁を開いた。教区の告解の受付日程が記されたものだった。
「教会の告解は、土曜の午後から夕方にかけて行われる。そして、日曜はミサだ」
しばらく、沈黙が落ちた。
先生が、僅かに目を細めた。
「――偶然、じゃないと」
「偶然にしては、出来すぎている」
セヴランは、蝋燭の炎越しに、
私たちを見た。
「もう一つ、ある」
彼は、記録簿の別の頁を指した。
そこには、被害者――
あるいはその家族――
が、教区でどのような立場にあったかが、簡潔に記されている。
「メアリも、ヴァイオレットも、ポールも、テオの家族も、そしてルーシーも――全員、この教区の信徒だ。告解に、通っていたと推測される」
私の喉が、小さく鳴った。
「つまり……」
「つまり、告解室こそが」
一度、セヴランが浅く呼吸を吐き出した。
そして――
「告解室の中だけが、誰にも見えない。」
セヴランは、静かに、けれど確信を込めて言った。
「奴が、獲物を選ぶ場所だ」
蝋燭の炎が、また揺れる。
部屋の隅の暗がりが、その分だけ深くなった。
沈黙が、資料室の中に満ちた。
蝋燭の芯が、じ、と小さく音を立てる。
先生は、しばらく記録簿の頁を見つめたまま、動かなかった。やがて、静かに口を開いた。
「――なら、話は早い」
「何?」
セヴランが、眉を寄せる。
「俺が、告解室に入る」
言葉は短く、迷いがなかった。
「え――」
私は、思わず声を上げていた。
「先生、それって」
「俺は狩人だ。
獣を殺して生きてきた。
そのことを告解しに来たと言えば、不自然じゃない。」
先生は、蝋燭の炎を見つめたまま、淡々と続けた。
「中に入れば、奴と向き合える。何を話すか、どんな態度を取るか――近くで見れば、分かることもある」
セヴランが、机に手をついた。
「待て」
珍しく、その声には焦りが滲んでいた。
「お前を、単身であの中に送り込むということが、何を意味するか分かっているのか。告解室は密室だ。中で何が起きても、外からは分からない。声も、姿も、遮断される」
「分かってる」
「分かっていて、言っているのか」
セヴランの声が、初めて荒くなった。
「もし、奴がお前の正体に気づいたら――お前は、あの部屋の中で、一人であの化け物と向き合うことになるんだぞ」
「だから、いい」
先生は、初めてセヴランの方を見た。
「奴が獲物を選ぶ場所なら、俺が獲物のふりをすればいい。向こうから、尻尾を出させる」
「馬鹿な真似を」
「他に、手があるか」
先生の問いに、セヴランは答えられなかった。
記録簿には、幾人もの名前が並んでいる。だが、そのどれもが、証拠にはならないと、彼自身が誰よりもよく知っていた。
長い沈黙の後、セヴランは、深く息を吐いた。
「――お前が入っている間、私は外で待機する。
約束した時間を過ぎても出てこない場合は、教会法だろうと何だろうと、
私の権限で踏み込む」
「判事殿が、勝手に告解室に踏み込む口実がいるだろう」
「その時は、後で好きなだけ罰してもらう」
セヴランは、苦い顔のまま、それだけ言った。
私は、先生の袖を掴んだ。
「先生、私も」
「駄目だ」
振り返らずに、先生は言った。
「今度ばかりは、駄目だ」
私は、それ以上、何も言えなかった。
蝋燭の炎が、また揺れた。
窓のない地下室に、
外の時間は流れ込んでこない。
それでも、確かに、何かが動き始めていた。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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