第35話:潔白の壁
セヴランの調査は、
その後も決して実を結ばなかった。
彼は、密かに教区の記録を洗った。
信徒名簿、寄進の記録、行事の出欠簿。
――手に入る限りの世俗の紙片を、幾度となく読み返した。
司祭たちの外出の記録も突き合わせた。
誰が、いつ、どこへ出かけたか。
それだけは、教会の外の帳簿にも残る。
だが、その先には、決して越えられない一線があった。
告解室の中で、誰が、何を、誰に語ったか。
その一点だけは、彼の権限がどれほど強くとも、指一本触れることを許されない。
教会法という、もう一つの国の法が、そこにだけ聳え立っている。
司祭が誰の告解を担当したか――
その記録すら、世俗の役人には開示されない。
信徒は司祭の名を知って列に並ぶが、その組み合わせの記録は、教会の内側だけで完結し、外へは決して漏れない仕組みになっている。
セヴランは、幾度となくその壁の前で足を止めた。
もし、あの告解室の中身にだけ触れることができたなら――
誰が、いつ、何を語ったか。
その記録さえ辿れたなら、答えはとうに出ているはずだった。
だが、それは彼の手の届かない場所にある。
どれだけ調べても、何も出てこない。
むしろ、皮肉なことに――
調べれば調べるほど、セラファンの評判は輝きを増していくばかりだった。
◆
その頃、大聖堂では、いつもと変わらぬ朝が始まっていた。
セラファンは、まだ夜も明けきらぬうちから起き、身支度を整える。
祭服に袖を通し、鏡の前で襟元を正す。
乱れ一つない所作は、幾度繰り返しても同じ滑らかさで完結する。
朝の祈りを終えると、教区の子供たちに読み書きを教える時間が待っている。
彼の声は穏やかで、一人一人の理解の速さに合わせて丁寧に言葉を選ぶ。
手習いの遅い子には、根気強く同じ文字を何度でもなぞらせる。
子供たちは彼を慕い、彼の周りに自然と輪ができる。
「セラファン様、これで合ってる?」
「ああ、上手だ。よく書けていますね。何度も練習頑張りましたものね」
少年が照れくさそうにはにかむ。
セラファンも彼の顔を慈しむように微笑む。
その笑顔に、作られたものは何一つ見当たらない。
昼過ぎには、貧しい家庭を見舞う。
手ずから運んだパンと、変わらぬ微笑み。
老いた寡婦の手を取り、
「お加減はいかがですか」
と尋ねる声には、演技の翳りなど微塵もない。
「あぁ、こんな私のところにまでいつも足を運んでくださって、神に感謝いたします。セラファン様のおかげで生きる希望を持てるのです」
彼女が涙ぐみながら礼を言うと、彼は困ったように、けれど嬉しそうに首を振る。
「私など、何一つ大したことはしておりませんよ」
夕刻、教会の会計を担う年配の女が、彼に深々と頭を下げる。
「セラファン様のような御方が、この教区にいらっしゃること、日々神に感謝しております」
「私など、まだまだ未熟者です」
柔らかな笑みを返しながら、彼は次の予定へと向かう。
その一日のどこにも、綻びはない。
乳香の香りだけが、彼の通った後に、いつも微かに残っている。
◆
ある日、教会の評議員の一人――街でも指折りの毛織物商人が、庁舎の廊下でセヴランを呼び止めた。
「判事殿。妙な噂を耳にしましたが」
男の声には、笑みの形をした威圧が滲んでいた。
「セラファン様のような高潔な方を勘ぐるなど、どうかしていますよ。
あの方がいらっしゃらなければ、この教区の何が保たれているとお思いか」
セヴランは、表情を変えなかった。
「噂とは、どのような」
「とぼけずとも結構。あなたが、あの方の身辺を嗅ぎ回っているという話です」
商人は、一歩距離を詰めた。
「よろしいですか、判事殿。
あの方は、この街の子らに文字を教え、貧しい者にパンを配り、病人を見舞う。それを、あなたのような御方が根拠もなく疑うことが、どれほど教区の信頼を損なうか。分かっておいでか」
「根拠の有無を判じるのが、私の仕事です」
「根拠が、ない」
商人は、笑みを絶やさぬまま、語気だけを強めた。
「ないでしょう、判事殿。あるなら、とうにお縄にしているはずだ。
ないから、ただ嗅ぎ回っておられる。それを、この街では『言いがかり』と呼ぶのですよ」
セヴランは、しばらく男を見つめた。
やがて、静かに一礼した。
「――ご忠告、痛み入ります」
それだけ言うと、彼は自室へ戻った。
扉を閉め、椅子に腰を下ろす。
机の上には、開いたままの記録簿があった。
何も出てこない。
むしろ、探れば探るほど、あの男の白さは輝きを増していく。
子供たちの敬愛。
寡婦たちの感謝。
有力者たちの庇護。
そして、教会法という、
決して開かれない一枚の扉。
その全てが、まるで最初から、この男を守るためだけに用意されていたかのようだった。
セヴランは、ペンを取った。
証拠にはならない。法廷では、何の意味も持たない一文だと、彼自身が誰よりも分かっている。
それでも、彼は記録簿の余白に、また一行、書き加えた。
――白すぎる者は、疑われない。
そういう風に、この街はできている。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
もし少しでも気に入っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援していただけると執筆の励みになります!




