第34話:白すぎる
判事庁舎の扉を押し開けると、埃と羊皮紙の匂いが鼻を突いた。
ノワールは、案内も待たずに奥の部屋へと進んだ。机に向かっていたセヴランが、顔も上げずに口を開く。
「何の用だ」
「奴の事件について、何か掴んでることはないか」
セヴランの手が、初めて止まった。
ゆっくりと顔を上げ、値踏みするような視線をノワールに向ける。
「一般人には見せられない」
平坦な、けれど有無を言わせない声だった。
彼は再び羊皮紙に視線を落とし、それきりノワールを見ようとはしなかった。
ノワールは、それ以上食い下がらなかった。ただ、部屋を出る間際、壁に貼られた賞金首の公示に目をやる。
害獣討伐の依頼、
賞金首の指名、
――そのどれにも、判で押したように同じ署名がある。
セヴラン。
毎回、この名だ。
狼の被害が出るたび、真っ先に公告を出すのはこの男だった。
捜査権限のない自警団や、記録係の誰かではない。
この男自身が、事件を追い続けている。
ノワールは、それだけを確認して庁舎を後にした。
◆
その週の終わり、いつもの酒場の隅で、セヴランは一人、盃を傾けていた。
彼が頼むのは、いつも同じ一杯だった。
この店に置いてある中では一等値の張るスコッチ。
他の酒には目もくれない。
「安酒は舌が荒れる」と、以前店主にそう漏らしたことがあるという。
判事という職務柄、酒に呑まれるようなことはない。
ただ、その一杯だけを、決まった曜日、決まった時間、決まった席で、ゆっくりと味わう。
それが、彼にとって唯一の弛緩の時間らしかった。
その隣に、ノワールが腰を下ろした。
セヴランは、一瞥もくれずに言った。
「私は誰かとつるんだりはしない」
「そうか」
ノワールは、それだけ言うと、自分の分の安酒を頼み、黙って飲んだ。
何を話すでもなく、二人はただ同じ空間にいた。セヴランは追い払うことも、席を立つこともしなかった。
その次の週も、ノワールは同じ席に座った。
セヴランはスコッチを、ノワールは安酒を。
互いに口数少なく、ただ隣り合って盃を傾ける時間だけが積み重なっていく。
また、その次の週も。
ある晩、セヴランが盃を傾ける手を止め、横目でノワールを見た。
「アンタ、その安酒のどこが美味い」
「美味くはない」
ノワールは、盃の中身をひと息に呷った。
「ただ、ここに座る理由がいる」
セヴランは、それきり黙った。
だが、その日から、彼が盃を置くタイミングが、心なしかノワールに合わせたものになっていった。
何度目かの週、彼が小さく息をついた。
「アンタもしつこいな」
初めて、彼の口調から刺々しさが抜けていた。
ノワールは何も答えず、ただ盃を傾けた。
◆
ある夜、ノワールは一人ではなかった。
隣に、ルージュを連れていた。
セヴランの視線が、彼女に向く。
値踏みするような目だったが、すぐに酒に戻った。今夜も、いつものスコッチが一杯、彼の手の中にあった。
「アンブル」
ノワールが、静かに口を開いた。
それはルージュの祖母の名前であった。
「ヴァイオレット。イリス」
セヴランの手が、盃の縁で止まった。
「聞いたことあるか」
沈黙が落ちた。酒場の喧騒だけが、二人と一人の間を埋めていく。
「俺達は、ヤツを追っている」
ノワールの声は低く、それでいて揺るぎなかった。
セヴランは、しばらく何も言わなかった。盃の中の酒を見つめたまま、動かない。
やがて、彼は盃を置いた。飲み干してすらいない、その琥珀色の液体を、店の卓に残したまま。
「――時間、あるか」
それだけ言うと、席を立った。
◆
案内されたのは、判事庁舎ではなく、セヴランの自宅だった。
質素な、しかし手入れの行き届いた住まい。玄関を抜けてすぐの一室、その壁一面が、書架で埋め尽くされていた。
几帳面な筆致で綴られた記録簿。
年代順に並べられた資料。
日付、被害者の名、状況、そして――誰にも見せられなかったであろう、独自の考察の走り書き。
「始まりから、全部だ」
セヴランが、抑揚のない声で言った。
「メアリの時から。誰も、まともに調べようとしなかった。娼婦一人の死に、誰が金を払う」
彼は書架の一角を指でなぞる。
「ヴァイオレットとイリスの時も、私が判事になったばかりで、上から睨まれた。
『よそ者の女子供の事件に、そこまで熱を上げるな』とな」
彼の指が、また別の記録の上で止まった。
「アンブルの件も、テオの件も、ポールの件も――全部、ここにある」
しばらく、部屋の中に沈黙が満ちた。
セヴランが、ぽつりと呟く。
「…………最近、大人しかったんだけどな」
ノワールが、視線を上げた。
「ほら」
セヴランは、書架の最新の一冊を手に取り、開いて見せた。
「加わったんだよ。最近、ルーシーって名前がな」
ルージュの体が、微かに強張った。
セヴランは、しばらくその頁を見つめたまま、動かなかった。やがて、誰にともなく、独り言のように呟く。
「調べるだけ調べた。教区の記録も、司祭たちの外出記録も――分かるものは全て。」
彼は、資料の余白に視線を落とす。
「何も出てこない。だが、な」
彼はペンを取り、その余白に、静かに一行を書き加えた。
――一番"白い"やつほど、私は信じない。
書き終えた文字を、彼はしばらくの間、じっと見つめていた。
証拠にはならない。法廷では、何の意味も持たない一文だ。
それでも彼は、ペンを置かなかった。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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