第33話:獣
先生が、振り返った。
私の異変に気づいたのだろう。
その顔から血の気が引いていること、指先が小さく震えていること、呼吸が浅く速くなっていること
――それら全てを、一瞥で読み取ったような目だった。
彼は何も聞かなかった。
ただ、ゆっくりと、目の前の世界を遮るように壁との間に立った。
それだけで、赤黒い文字は見えなくなる。
私の呼吸が、少しだけ、深くなった。
「……先生」
声が掠れた。喉が張り付いて、うまく音にならない。
「今朝の、ミサの……」
言葉が続かない。
何を言おうとしているのか、自分でも整理がつかないまま、口だけが動く。
「あの人が、笑ってた。誰にでも。優しくて、綺麗で、……信徒たちが、皆、うっとりして」
膝が、震えている。
立っているのがやっとだった。
両手で自分の腕を抱えるようにして、私はそれでも自身からこぼれ落ちる言葉を押し出す。
「あんな顔で、あんな声で、笑いながら――」
そこで、声が完全に途切れた。
喉の奥から込み上げてくるものがある。吐き気に似た、けれど違う何か。
指先の震えが腕全体に広がり、歯の根が合わない。
先生は、しばらく黙っていた。
私が言葉にできずにいるものを、急かすことも、代わりに埋めることもしなかった。ただ、私が私として自分の足で立っていられるだけの距離で、じっとそこにいた。
やがて、私がようやく小さく喘ぐように息を吸った時、彼はようやく口を開いた。
「――人間には、無理だ」
短く、静かな声だった。
「あんな笑い方は。あんな眼差しは。良心のある人間には、できない」
一拍、間があった。
「アレは」
その先を、先生は言い淀んだ。
長い沈黙の後、彼の口から出てきたのは、感情を削ぎ落とした、それでいて確信に満ちた一言だった。
「――獣だ」
その言葉を耳にした瞬間、私の中で、何かがかろうじて保っていた形を失った。
目の奥が熱くなる。視界が滲む。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる体を、先生の腕が支えた。
声にならない嗚咽が、喉から漏れる。
涙は止まらず、それでも私は必死に、声だけは殺そうとしていた。ローズさんの前で。
この、全てを失った女性の前で、これ以上何かを乱すことは許されない――そう思う理性だけが、辛うじて私を繋ぎ止めていた。
先生は、何も言わなかった。
ただ、震える私の背に、片手を添えたまま。
外では、まだ復活祭の鐘の余韻が、遠く空に響いていた。
どれくらい、そうしていただろうか。
私の嗚咽が、少しずつ収まっていく。先生は何も言わず、ただ支え続けていた。
ふと、視線を上げると、カリーヌさんと目が合った。
ローズさんの傍らに膝をついたまま、カリーヌさんもまた、何も言えずにいたのだ。
ただ、その目だけが、私の方を見て小さく頷いた。
行きなさい、と。ここは、私が。
先生が私の肩に手を添え、戸口へと促す。
外に出ると、朝の光が、あまりにも眩しかった。
復活祭の鐘は、まだ遠くで鳴り続けている。
街のどこかでは、祝祭の華やぎが続いているのだろう。
子供たちの笑い声、彩色された卵、
白い花で飾られた通り――
そうしたものが、今この瞬間も、当たり前のように存在している。
その眩しさが、今の私には、ひどく遠いものに感じられた。
先生は何も言わず、隣を歩いていた。
私は、一度だけ振り返った。ローズさんの家の戸が、ゆっくりと閉じられていく。
ちゃんと禊終わったよ。
ただいま、お姉ちゃん。
あの赤黒いその文字が、
まだ瞼の裏に焼き付いている。
――獣。
先生の言葉が、耳の奥で繰り返される。
それは、単なる比喩ではなかった。
私自身にももう、そうとしか思えなかったのだから。
人の形をして、人の言葉を話し、人よりも美しく笑う。
けれど、
人ならざるもの。
私は、そのことを、今日この日、初めて言葉にして理解した。
まだ、何も終わっていない。
むしろ、これから始まるのだと、私は静かに思う。
白い祭服の裾が、頭の中でひらめく。
あの美しい笑顔の向こうにある、本当の顔を暴くまで
――決して終わることなど
できやしないのだから。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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