第32話:顔
先生は、何も言わなかった。
私の手を引き、ただ歩いた。
ミサの熱気も、聖歌の残響も、まだ耳の奥に残ったままだった。
それなのに、彼の足取りは迷いなく、ある一つの場所へ向かっている。
「……先生?」
返事はない。
ローズさんの家の前に着いて、初めて私はその沈黙の意味を理解した。
開け放たれたままの戸。
中から漏れる、空気の匂い。
私の足が、玄関先で止まった。
動けない。
目に映るものを、頭のどこかが処理することを拒んでいる。
硬直したまま、視線だけがローズさんを探す。
ローズさんは椅子に座っていた。
何かを訴えるでもなく、崩れ落ちるでもなく。ただそこに座っている。
その表情から、私は何も読み取ることができなかった。
悲しみも、怒りも、絶望さえも、
そこにはない。
まるで、感情そのものが根こそぎ持っていかれてしまったかのような、
空白の顔。
カリーヌさんはローズさんの傍らに膝をつき、その肩に手を置いたまま、動けずにいた。
何と声をかければいいのか、何をすればいいのか、分からないまま、ただ寄り添うことしかできずにいる。
先生だけが、違った。
彼は迷わず部屋の奥へ進み、そこにあるものを検め、必要なことを一つ一つ、機械的に確認していく。
感情を挟む余地のない、
実務者の動きだった。
竈の上に、鍋があった。
まだ、微かに湯気が立っている。
先生の動きが、一瞬だけ止まった。
それ以上、鍋の中を見ることはせず、ただ静かに蓋を戻す。
私には、彼の背中がほんの一拍だけ強張ったのが分かった。
鍋の傍らのテーブルに、一組の手袋が置かれていた。
子供っぽさの残る、けれど丁寧な刺繍の入った手袋。誰かが大切に使い込んだ形跡がある。
ローズさんの視線が、初めて動いた。
感情の消えた瞳が、その手袋の一点に吸い寄せられる。
そして、これまで何を問いかけられても閉ざされたままだった唇が、微かに開いた。
「……これは、ルーシーのものよ」
声は、驚くほど平坦だった。
感情の起伏が一切ない、乾いた声。
「だって、私が誕生日に贈ったんだもの」
それだけだった。
再び、ローズの唇は閉ざされた。
視線はまた、どこか誰にも見えない場所へと戻っていく。
カリーヌさんが、声にならない声で息を呑んだ。
私は、その意味を理解するのに、数秒を要した。
理解した瞬間、床が傾いだような感覚に襲われた。
視線が。
竈の鍋へ、
手袋へ、
そしてローズの空白の横顔へと、
何度も往復する。
先生が、静かに私の前に立った。
私の視界から、鍋も、手袋も、遮るように。
そして、壁を見た。
私の視線も、遅れてそこに追いついた。
『ちゃんと禊終わったよ?
――ただいま、お姉ちゃん』
赤黒い文字が、壁に躍っている。
声にならない。
私は、それ以上その文字を読み続けることができず、視線を逸らした。
――今朝、あの人は。
脳裏に、白いストラの司祭が浮かぶ。
祭壇に立ち、聖書を朗読していた、あの声。
信徒たちに向けていた、あの眼差し。
慈愛としか呼びようのない、あの微笑み。
あの光景と、今、目の前にあるものが、同じ人物から生まれているという事実。
普通の人間には、できない。
あんな風に、笑えない。
あんなに、一番正しい顔をしたまま。
人じゃない。
そう思った。
けれど、本当に恐ろしいのは、
彼が最後まで、
人間の顔をしていたことだった。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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