第31話:白日
大聖堂の鐘が鳴る。
紫から白へ。金の刺繍がその上を走る。
四十日間、祭壇を覆っていた沈黙の色が、今日になって剥がれ落ちている。
ルージュは後方の長椅子に座り、祭服の裾を目で追った。
白いストラ。金の帯。いつもの黒に、別の色が重なっている。それだけだった。
彼が聖書を開き、朗読を始める。
その声を聞くたびに思う。
どうしてこの声は、こんなにも人の耳に染み込むのだろう、と。
低すぎず、高すぎず、まるで一語ごとに聴く者の名前を呼んでいるかのような温度がある。
言葉の意味よりも先に、声そのものが胸の奥に触れてくる。
信徒たちが目を閉じ、うっとりとその響きに身を委ねているのが分かる。
ルージュ自身、油断すれば同じように酔ってしまいそうになる。
説教が終わり、彼は列に並ぶ信徒たちの間を歩く。
年老いた女に手を差し伸べる時も、幼い子供の頭に触れる時も、その眼差しは変わらない。
慈愛としか呼びようのないもの。
作られた表情ではない。
本当に、その一人一人を慈しんでいるとしか思えない眼差し。
朝の光が、ステンドグラスを透かして彼の横顔に落ちる。
金の髪、蒼い瞳、白と金の祭服。
まるで絵画から抜け出てきたかのような美しさで、その場に佇んでいる。
目の前の光景は、何一つとして「狼」を示さない。
むしろ、そのすべてが真逆の結論しか導かない。この人が、あの血文字を書いた同一人物であるはずがない――
そう思わせるだけの、完璧な均衡がそこにはあった。
ただ、一つだけ。
彼がすれ違いざま、風がふわりと動いた瞬間、乳香の香りがいつもより少しだけ、鼻の奥に長く残るような気がした。
ルージュは軽く瞬きをする。
気のせいだろう。今日は香が多めに焚かれているだけかもしれない。復活祭の朝だから、いつもより多く使っているのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、それ以上は深く考えなかった。
――今日は、まだ何も聞いていない。
そのことに、彼女は安堵に似た何かを覚える。それがどれほど根拠の薄いものか、自覚しながら。
オルガンが鳴り始める。四旬節の間ずっと禁じられていた音が、堂内いっぱいに満ちる。信徒たちの顔にも、久しぶりの華やぎがある。
ルージュは、隔週の習慣通りそこに座り、いつも通り彼を見ていた。
祈るためではなく、見るために。
その日の彼女は、まだ何も知らない。
◆
カリーヌが宿の戸を叩いたのは、ミサが始まってすぐの頃だった。
「ノワールさん、いる? ノワールさん!」
声に応じて出てきた男の顔を見るなり、彼女は言葉を選ぶ余裕をなくしていた。
「ローズの家の……戸が、
開かないんだよ。
何度呼んでも返事がなくて。
おかしいんだ、いつもならすぐに」
それだけで、ノワールはもう動き出していた。上着を羽織る間もない。
ローズの家に着くと、戸に鍵はかかっていなかった。
ただ、内側から何かが支えている。
ノワールが肩から押し込むと、抵抗はあっけなく崩れた。
カリーヌが先に、短く息を呑む音を立てた。
ノワールは、それ以上何も言わなかった。
ただ視線を巡らせ、必要なことだけを確認し、カリーヌを外に出るよう促した。
彼女は従わなかった。
震える手で、戸口の前に立ち尽くしたまま動かない。
ローズは居間の椅子に座っていた。
泣いてはいなかった。
叫んでもいなかった。
その表情は、黒く塗りつぶされたみたいに、何一つ読み取れなかった。
「ローズちゃん!」
カリーヌが呼んでも、反応はない。
視線はどこか一点
――ノワールにも、それがどこなのか分からない場所――
に留まったまま、微動だにしない。
ノワールは一度だけ、部屋の奥に目をやった。
それから、踵を返した。
「カリーヌさん、彼女についていてやってくれ」
「あんたは……」
「行かなきゃならないところがある」
ノワールは一瞬だけ部屋を見渡した。
振り返らずに、彼は言った。
◆
闖入者があったのは、聖体拝領も終わりに差し掛かった頃だった。
入り口の扉が乱暴に開く音。
祝祭の朝に似つかわしくない足音。
信徒たちの視線が一斉に後方へ流れる。
男は、祭壇にも、司祭にも、一瞥もくれなかった。
まっすぐ後方の席へ向かい、そこに座っていた少女の腕を取ると、
「来い」
それだけだった。
少女は抵抗もせず、引かれるまま立ち上がった。
周囲の信徒がざわめく。
何事かと囁き合う声。
だが、儀式の進行を止めるほどの騒ぎにはならない。ほんの数秒、後方の一角が揺れただけで、それは収まっていく。
祭壇から、セラファンはその様子に視線をやった。
男の顔には見覚えがある。
何度か、街の噂に上る名だ。
獣を狩る仕事をしている、腕のいい男。
それだけの認識で、彼にとっては十分だった。
何をしに来たのか、何を連れ去るつもりなのか――関心を向けるに値しない。
視線はすぐに、次の信徒へと戻っていく。
ただ、連れ去られていく少女の後ろ姿だけが、一瞬だけ、その意識の隅に引っかかった。
――今日は、『赤』ではないらしい。
いつも被っている、あの頭巾のような、深い色のベール。
てっきり、と思いかけて、
セラファンはすぐにその考えを手放した。
―――どうでもいいことだ。
目の前の聖体は、まだ配られている途中だった。
祝福を待つ手は、まだ途切れていない。
彼は次の信徒へと向き直り、いつもと変わらない笑みを浮かべたまま、
祝福の言葉を続けていた。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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