第30話:種明かし
【月曜日、午前10時過ぎ】
石造りの庁舎、その最奥にある判事の執務室は、いつも冷えていた。
窓は高い位置に一つだけ。
差し込む光は乏しく、代わりに机上の燭台が、積み上げられた書類の山に、頼りない影を落としている。
壁一面を覆う書棚には、革表紙の記録簿が隙間なく並んでいた。整然と、しかし埃を被ることなく、几帳面な手によって管理され続けている証だった。
その机の前で、セヴランは一人、古びた綴りを繰っていた。
インクの滲んだ古い報告書。
日付、被害者の名、現場の状況
――それらが、乾いた事務的な文字で淡々と記されている。
彼はその一枚を、ゆっくりと指先でなぞった。
メアリ。
…………ヴァイオレット。イリス。アンブル。
…………ポール。テオ。
そして、今しがた新たに書き加えられたばかりの、一行。
その筆跡だけが、
他より僅かに荒く、急いた様子を残していた。
セヴランは、ペン先を置いた手で、こめかみを押さえた。深く、長い、息を吐く。
「……また、動き始めたか」
低い声が、誰もいない部屋に落ちる。
「畜生めが」
その一言には、怒りとも、諦めとも、あるいはもっと別の、長年蓄積された疲労のようなものが滲んでいた。
彼は、燭台の灯りを見つめたまま、しばらく動かなかった。
法服の黒が、その影の中に、深く溶け込んでいた。
部屋の隅で、
古時計が一つ、時を打つ。
また一つ、その針だけが、
何事もなかったかのように進んでいく。
◆
――時は遡る。
【二日前・土曜日、午前1時頃】
意識が朦朧とし、やけに口の中が乾く。
――ここは?
『どこ』
という声を上げようとした、
その時だった。
手足は縛られ、椅子に括り付けられている。なお、口元は白いスカーフで縛られ、自由に声を上げることもままならない。
「……んっ、んん!! んうっ、むぅッ!!」
必死で、スカーフをずらそうと試みるも、まるで口元から外れそうにない。
石造りの壁が、四方から迫るように、視界の端で滲んでいた。
灯りは一つ、蝋燭の炎だけ。
それすらも、まるで水の中で見ているかのように、輪郭が揺らいでいる。
この、今の状況の何もかも、すべてが不透明すぎて、心臓が急激に拍動を増しているのがわかる。
――カタン。
その時だった。
正面の椅子に、見覚えのある人物が、昼間とは違う衣装で、その人物にしては、やけに大股開きで腰掛けているのが見えた。
黒。
深く沈む、あの祝福の白とは、正反対の黒だった。
冷や汗が、背筋を伝う。
今、自分がどのような状況に置かれているのか、益々分からなかった。
にも関わらず、その人物の笑顔は
――昼間見せる、慈しみあるものと、何一つ変わりはしなかったのだから。
そして。
口を開いた彼は、あまりにも軽い口調で、こう問いかけたのだった。
「やぁ、起きたの?
思ったより早かったね」
それは楽しそうに。
愉悦を含んだ、その表情で。
くすくすと。
それはまるで、
新しい玩具を目の前に見つけた幼児のような、眼差しの輝きを持っていた。
「ちょーっと、お薬強く効きすぎたかな? まぁ、最近あんまり眠れないっていうのも悩みのひとつだったみたいだし、結果オーライってやつかな」
目の前のその男は。
ケラケラと笑っていた。
如何にも、楽しくて仕方なさそうに。
その笑い声だけが、
この石部屋にはひどく似合っていた。
ルーシーが驚きのあまり固まっていると、目の前の男は、いかにも愉しそうに続ける。
「はじめまして、ルーシー。俺はね、シエルって言うんだ」
そう、目の前の人物が名乗った時に、
私は、口のスカーフを解かれていたことに気づきもしなかった。
まず、
何を言われたのか、理解できなかった。
シエル。
誰のことだろう。
目の前にいるのは、どう見てもセラファン司祭なのに。
「………??!! ……っ」
言葉にならない音だけが、喉の奥から漏れる。
「はは、驚き過ぎて声も出ないってこのことだよね? みんな、この『種明かし』の瞬間、本当にいい表情してくれるんだよねえ。
俺さ、アレ、大好きなんだ。」
ルーシーは俄に信じられない光景を。
自分の見ている世界そのものがおかしくなったのだと考え始めていた。
「あぁ、愛おしいなぁ」
「………せ、セラファン様? 一体!?一体どうなさったのですか?!」
「あー、ね。そうだよね、セラファン。その名前のほうが馴染み深いよね?」
手もとのロザリオを弄ぶように、クルクルとその場でいじっているその男は、
確かに昼間、私の全てを赦すと、そう言ったはずの男に間違いなかった。
金髪も、
蒼い瞳も、
整った顔立ちも、
何一つ変わっていない。
けれど、そこにあるのは、もう別の生き物だった。
蝋燭の灯りが揺れるたび、
彼の輪郭が、歪んで見える。
先ほど飲み干したハーブティーの作用なのか、
それとも本当に、彼という存在そのものが、輪郭を保てなくなっているのか、
ルーシーにはもう判別がつかなかった。
「ね、ルーシー」
シエルは、椅子から身を乗り出した。
「今日の告解、すっごく良かったよ。
姉さんへの気持ち、あれ、本当に良かった。
……ちゃんと最後まで、聞かせてもらったからね」
ロザリオを弄ぶ指先が、止まる。
「でさ。禊、済ませたいんだよね?
だったら、ちょうどいいや」
その口角が、これまで見たどの微笑みよりも、深く、大きく吊り上がった。
男は、更に続ける。
「いやぁ、最初は人形の話かぁって思ったんだけどさ。
え?何の話、今の?
みたいにさ」
「……ッ」
「あ、でもクロワッサンの話、可愛かったなぁ。
ブリオッシュでもクロワッサンでも小麦の集合体じゃん。
そりゃ、お姉ちゃんだってどっちでもいいって言うに決まってるよね? あぁ、おっかしい」
その豹変ぶりに声も出ないでいると、男の視線が、ゆっくりと、射抜くようにルーシーを捕らえた。
「でもさ、傑作なのがね、
君の不倫相手のポールくんがね? この部屋で言ったんだ」
ポール。
その名前を耳にした時、私の冷や汗は、もはや止まらなかった。
「『俺が愛してるのは妻のローズだけなんだ』だってさー!! 最高にエキサイティングでしょ?」
その男の顔は紅潮していた。
「……どう思う?」
ルーシーは呟くように否定する。
「違う……」
「どうして違うの?」
更に口の端を歪めて男は続ける。
「……君が一番知ってるでしょ?」
そのロザリオを弄ぶ手を止めて、更に言う。
「ねぇルーシーちゃん? 君って結局、誰にも愛されなかった可哀想な子羊でしかなかったんだね。アハハハ」
その笑い声が、石造りの部屋に、いつまでも反響していた。
ルーシーの視界が、また滲む。
それが涙のせいなのか、薬物によるものなのか、もう区別がつかなかった。
「……嘘」
掠れた声が、喉の奥から零れ落ちる。
「え? どこが嘘なの?」
シエルは、心底不思議そうに、小首を傾げた。悪意など欠片もない、という顔で。
「俺、告解で聞いたことしか言ってないよ。君が知らなかっただけじゃん」
その無邪気とすら呼べる響きが、何よりも彼女の心を切り裂いた。
告解室で聞いた言葉は、絶対に外に漏れないはずだった。
守秘義務は、彼女にとって唯一の、最後の拠り所だったはずだ。
けれど今、それは彼の手の中で、ただの玩具のように弄ばれていた。
「ねぇ、ルーシーちゃん?」
シエルは、椅子から立ち上がった。
ロザリオを弄んでいた指先が、今度はゆっくりと、彼女の頬へと伸びてくる。
「そんな顔しないでよ。ほら、笑ってよ」
冷たい指先が、涙の跡をなぞった。
「ずっと、お姉ちゃんに勝ちたかったんでしょ? だったら――」
その先の言葉は、もう、耳に入ってこなかった。
視界が、白く霞んでいく。薬物の残滓が、まだ彼女の血の中に残っていたのか、それとも、恐怖そのものが、意識を手放そうとしているのか。
「大丈夫。ちゃぁんと、姉さんのところまで、届けてあげるから」
その声だけが、遠く、近く、揺らめきながら聞こえていた。
やがて、視界の全てが暗闇に呑まれる寸前――
耳の奥に、あの笑い声だけが、いつまでも、いつまでも、こびりついて離れなかった。
ケラケラと。
ケラケラと。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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