第29話:禊
ローズの家の前に立つと、ルーシーの足は、また竦みそうになった。
けれど、今日は違う。
胸に抱えた聖書の重みだけが、彼女をその場に踏みとどまらせていた。
戸口をノックする手が、微かに震える。
それでも、拳は迷わず木の扉を叩いた。
一つ、二つ。
しばらくの沈黙の後、扉の向こうに、確かな気配があった。
息を潜めるような、それでいて確実にそこにいる、という重みのある気配。
「……ローズ、お姉ちゃん」
ルーシーの声が、掠れた。
「開けなくていいわ。
……お姉ちゃん、そのまま聞いて」
扉一枚を隔てたまま、彼女は続けた。
「私、謝りたいことがあります。
必ず……禊を終えたら、またここへ来るから。
良かったら、話、聞いてくれないかな?」
声は掠れ、目の前の世界は滲みそうになる。
扉の向こうから返ってきたのは、長い沈黙だった。
木の板一枚が、今のルーシーには、途方もなく厚い壁のように感じられた。
やがて、静かに、それだけが返ってきた。
「……分かったわ」
短い、けれど確かな返事だった。
ルーシーは、その一言だけで、胸の奥が緩むのを感じた。
涙がこぼれそうになるのを、唇を噛んで堪える。
「ありがとう、お姉ちゃん」
そう言い残し、彼女は踵を返した。
今夜、全てを終わらせて、また明日にでも、この扉を開けてもらえたら
――そんな淡い希望を抱きながら。
その足取りが、来た時よりも、いくらか軽く見えた。
◆
扉の内側で、ローズは長い間、そこに立ち尽くしていた。
妹の足音が、遠ざかっていく。
それが完全に聞こえなくなるまで、動けなかった。
昔から、あの子には困った癖があった。
人形も、クロワッサンも、母の指輪も。
欲しがるものはいつも、ローズの手にあるものばかりだった。
物心ついた頃からずっと、その度に、ローズは折れてきた。
妹が本当に欲しかったものが何なのか、深くは考えないようにして。
辟易していた。
正直に言えば、幾度となく。
――でも。
ローズは、扉にそっと手を当てた。
木の冷たさが、掌に染みる。
愛している。
だって、可愛い、たった一人の妹だから。
昔のことは、もう、いい。
何もかも水に流して、
また笑い合える日が来るのなら。
ローズは、扉越しに、まだそこにいるはずのない妹の気配を、探すように見つめていた。
明日、また来ると言った。
その約束を、ローズは、疑いもしなかった。
◆
大聖堂の扉を潜ると、日中の喧騒が嘘のように、内部は静まり返っていた。
蝋燭の灯りだけが、
石造りの回廊に長い影を落としている。
ルーシーは、聖書を胸に抱いたまま、いつもの告解室へと向かった。
格子の向こうに、既に人影があった。
「よく来られましたね」
セラファンの声は、昼間と変わらぬ、穏やかな響きだった。
「夜は、まだ冷えます。こちらを、どうぞ」
格子の脇に設けられた小さな受け渡し口から、湯気の立つカップが差し出された。
ふわりと立ち上る香りは、
これまで嗅いだことのない、少し癖のある甘さを含んでいた。
「ハーブティーです。
心を落ち着けるのに、よく効きますよ」
ルーシーは、両手でそっとそれを受け取った。指先が、カップの温もりに触れる。
「……ありがとうございます、司祭様」
彼女は、震える手でそれを口に運んだ。
温かい液体が、喉を伝って落ちていく。苦みの奥に、微かな甘さが残った。
「今日は、お姉さんのところへ、行かれたのですね」
セラファンの声が、静かに問いかける。
「はい。……禊が終わったら、必ず会いに行くと、約束してきました」
「それは、良かった」
その声には、いつも通りの慈愛が滲んでいた。
「では、心置きなく、続きをお話しください」
ルーシーは、頷こうとした。
けれど、
視界の輪郭が、ゆっくりと滲み始めていることに気づいた。
カップを持つ手から、力が抜けていく。
「……司祭、様……?」
呼びかけた声は、思うように音にならなかった。
瞼が、鉛のように重くなっていく。
歪んだ視界の中。
セラファンの穏やかな微笑みだけが、最後に見えたものだった。
そのまま、ルーシーの意識は、深い闇の中へと沈んでいった。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
もし少しでも気に入っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援していただけると執筆の励みになります!




