第28話:手に入らなかったもの
「あれは、私が二十くらいの時でした」
ルーシーの声が、告解室の狭い空間に、静かに落ちる。
◆
姉には、ジャンという恋人がいた。
腕のいい大工で、笑うと目尻に皺が寄る、優しい人だった。
ローズが彼の話をする時、いつも声が弾んでいたのを、ルーシーは覚えている。
その笑顔を見るたび、ルーシーの中で、あの馴染みの感覚が疼いた。
――いいな。
私も、あんな風に誰かに笑いかけられたい。
きっかけは、些細なことだった。
姉が仕事で遅くなる日、ジャンが偶然、ルーシーの家の前を通りかかった。
少しだけ、立ち話をした。
それだけのはずだった。
けれど、その「少しだけ」は、幾度も繰り返された。
ジャンがローズに向ける笑顔を見るたび、胸の奥で、あの馴染みの疼きが静かに目を覚ました。
――まただ。
また、お姉ちゃんだけ。
だから、少しずつ、彼の視線を自分にも引き寄せようとした。
悪気があったわけではない
――そう、自分に言い聞かせていた。
ある日、ローズがそれに気づいた。
いつも穏やかな姉が、あの日だけは違った。
「どうして、私の全部を奪おうとするの」
震える声で、姉はそう言った。
ルーシーは、何も言い返せなかった。
結局、ジャンとローズは、それきり終わった。
ジャンの心変わりなのか、ローズ自身がもう信じられなくなったのか、詳しい理由は誰も語らなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
ジャンは、ルーシーの元にも来なかった。
姉から奪ったつもりだったものは、最初から、ルーシーの手には何も残らなかったのだ。
◆
「私は、姉から何かを奪ったんです。それなのに、私の手には、何一つ残らなかった」
告解室の中、ルーシーの声が、力なく零れた
―――――
告解室の椅子に腰を下ろしてから、どれほどの時間が経っただろうか。
ルーシーの唇は、何度も開きかけては、そのまま閉じられた。
喉の奥に、言葉が石のように沈んだまま、上がってこない。膝の上で組んだ両手の指が、白くなるまで互いを締め付けている。
これだけは。
これだけは、口にしてはいけない気がした。
今まで語ってきたどの記憶よりも、これだけは。
「いつでも大丈夫です。
焦らないでください。私はここで、あなたのタイミングをお待ちしておりますので」
格子の向こうで、蝋燭が揺れた。
その小さな炎の揺らぎを、ルーシーはぼんやりと見つめていた。ただ、その光だけが、この部屋の中で確かなもののように思えた。
やがて、彼女の唇が、震えながら開いた。
「あれは、ジャンと姉が破局した後のことでした……」
◆
元々、ポールとは、私も含めて幼馴染のようなものだった。
ポールにも、その頃は別の恋人がいた。
私のことなど、ただの妹程度の存在にしか映っていなかったはずだ。
関係が変わったのは、姉とジャンが別れてからだった。
ポールは、
ジャンがいなくなってからというもの、
以前より頻繁に家へ顔を出すようになった。
「ローズ、今度食事でも行かないか」
「荷物、持つよ」
「今日は仕事、疲れただろ」
そんな何気ない気遣いが、少しずつ、姉だけに向けられていく。
なんてことはない。
ポールもまた、姉に恋をしていた一人だった。ジャンというライバルが脱落した途端、彼はまるで待っていたかのように、姉へとアタックし始めた。
私は、それを見てまた――
心の奥に棲みついた、あの昏くて冷たい炎が、再び静かに揺れていく。
どこか他人事のような、遠い温度だったはずなのに。
それは、決して私から離れようとはしなかった。
どうしても、この気持ちを抑えなければならない。
そう思えば思うほど、喉の奥に何かがせり上がってくるような感覚があった。
錨を下ろしたつもりでいた場所から、少しずつ、少しずつ、船が流されていく。
その感覚に、抗えなかった。
結婚してからだった気がする。彼はいつも、幸せそうに笑っていた。
ただ、一つだけ。
姉の、唯一の綻び。
そう呼ぶには、あまりにも外道な話なのだろうけれど。
父を亡くしてから体調を崩した実母を見舞いに行く、土曜日の夕方。
彼は、少し寂しげに、時間を持て余していた。
「……あれ? 姉さんは?」
私はあまりにもわざとらしく、それでいて自然な声で、そう尋ねた。
ポールは、当然のように、私に対して『義理の妹』以上の感情など、何一つ見せなかった。
「ああ、お義母さんのとこに行ってるんだ」
その声には、少しだけ寂しさが滲んでいた。
「ふうん。義兄さんって、お姉ちゃんのこと本当に大好きなんだよね。妹として嬉しいわ」
最初は、それだけのやり取りだった。ただの、他愛のない世間話。
けれど、次第に、彼はその空白を埋めるように
――あるいは、週末までの疲れを癒すかのように。
土曜日の夜にだけ、飲みに行く。
そんな習慣が、いつしか出来上がっていた。
加えて、彼は酒に弱かった。
そこを、つつけばよかった。
ただ、それだけのことだった。
まるで熟れすぎた果実に、指先で触れるだけでよかったみたいに。
あまりにも容易く、
一線は越えられてしまった。
そこからは、一度起きてしまった雪崩を、誰も止めることができないように、何度も逢瀬を重ねた。
手を伸ばすたび、沼の水位が、また少し上がっていくのが分かった。
それでも、足を引き抜こうとは思わなかった。むしろ、もっと深く沈んでいきたいと、どこかで願っていた。
そして、とうとう、彼に言わせたのだ。
『ルーシー、君が好きだ』
『ローズなんかよりも、ずっと君が』
『会いたい』
『君なしでは、いられない』
その言葉を聞いた時だけは。
ああ。
やっと勝てた。
生まれて初めて、
姉より私が選ばれたのだと、
本気で思ってしまった。
でも、
それは、ただの崩落への始まりでした。
彼は――ポールは、その身を『狼』へと食い尽くされてしまった。
◆
セラファンの声は、いつまでも変わらぬ温かさを保っていた。
「あなたの荷物は、まだ全て下ろしきれていない。……それでいいのです。少しずつで、構いません」
ルーシーは、涙で濡れた頬を、震える手のひらでそっと拭った。
「……ありがとうございます、司祭様」
「今夜も、また同じこの場所でお待ちしていますよ」
格子の隙間から差し込む蝋燭の光が、彼の輪郭を淡く縁取っていた。
その光に照らされて、初めて、ルーシーはそれに気がついた。
いつもの黒い司祭服の上
――彼の首元に掛けられたストラが、これまで見たどの色とも違う。
深く沈む紫ではない。
眩いほどの、白だった。
まるで祝福そのものを纏っているかのような、その白さ。
四旬節の間中、街を覆っていた重たい紫の影は、もうどこにもない。
「イースターが……」
ルーシーは、思わずそう呟いていた。
「ええ」
セラファンは、静かに頷いた。
「主が甦られた、喜びの季節です。
あなたの魂もまた、いつか必ず、光の中へ帰ることができますよ」
その白いストラは、蝋燭の灯りを受けて、まるでそれ自体が発光しているかのようだった。
慈愛に満ちた微笑みと、清らかな白の衣。
ルーシーの目に映るその姿は、この世のものとは思えないほど、神々しかった。
彼女は、深く頭を下げた。
「また、来週……いえ」
言いかけて、ルーシーは言葉を止めた。
「今夜、また、いらしてもいいのですよね」
「もちろんです」
セラファンの声に、迷いはなかった。
「私は、ここで、あなたをお待ちしていますから」
告解室を出たルーシーの足取りは、来た時よりも、いくらか軽くなっていた。
彼女の背中を見送りながら、セラファンは静かに、格子の向こうで目を細めていた。
その白いストラの裾が、
蝋燭の炎に揺れて、ほんの一瞬、
影のように黒く沈んで見えた。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
もし少しでも気に入っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援していただけると執筆の励みになります!




