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告解者  作者: カナタ


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第28話:手に入らなかったもの






「あれは、私が二十くらいの時でした」


ルーシーの声が、告解室の狭い空間に、静かに落ちる。







姉には、ジャンという恋人がいた。




腕のいい大工で、笑うと目尻に皺が寄る、優しい人だった。




ローズが彼の話をする時、いつも声が弾んでいたのを、ルーシーは覚えている。




その笑顔を見るたび、ルーシーの中で、あの馴染みの感覚が疼いた。




――いいな。




私も、あんな風に誰かに笑いかけられたい。




きっかけは、些細なことだった。




姉が仕事で遅くなる日、ジャンが偶然、ルーシーの家の前を通りかかった。


少しだけ、立ち話をした。




それだけのはずだった。




けれど、その「少しだけ」は、幾度も繰り返された。




ジャンがローズに向ける笑顔を見るたび、胸の奥で、あの馴染みの疼きが静かに目を覚ました。




――まただ。




また、お姉ちゃんだけ。




だから、少しずつ、彼の視線を自分にも引き寄せようとした。


悪気があったわけではない


――そう、自分に言い聞かせていた。




ある日、ローズがそれに気づいた。




いつも穏やかな姉が、あの日だけは違った。




「どうして、私の全部を奪おうとするの」




震える声で、姉はそう言った。


ルーシーは、何も言い返せなかった。




結局、ジャンとローズは、それきり終わった。


ジャンの心変わりなのか、ローズ自身がもう信じられなくなったのか、詳しい理由は誰も語らなかった。




ただ一つ、確かなことがあった。




ジャンは、ルーシーの元にも来なかった。




姉から奪ったつもりだったものは、最初から、ルーシーの手には何も残らなかったのだ。







「私は、姉から何かを奪ったんです。それなのに、私の手には、何一つ残らなかった」




告解室の中、ルーシーの声が、力なく零れた




―――――




告解室の椅子に腰を下ろしてから、どれほどの時間が経っただろうか。




ルーシーの唇は、何度も開きかけては、そのまま閉じられた。




喉の奥に、言葉が石のように沈んだまま、上がってこない。膝の上で組んだ両手の指が、白くなるまで互いを締め付けている。


これだけは。




これだけは、口にしてはいけない気がした。




今まで語ってきたどの記憶よりも、これだけは。




「いつでも大丈夫です。


焦らないでください。私はここで、あなたのタイミングをお待ちしておりますので」




格子の向こうで、蝋燭が揺れた。




その小さな炎の揺らぎを、ルーシーはぼんやりと見つめていた。ただ、その光だけが、この部屋の中で確かなもののように思えた。




やがて、彼女の唇が、震えながら開いた。




「あれは、ジャンと姉が破局した後のことでした……」







元々、ポールとは、私も含めて幼馴染のようなものだった。




ポールにも、その頃は別の恋人がいた。




私のことなど、ただの妹程度の存在にしか映っていなかったはずだ。




関係が変わったのは、姉とジャンが別れてからだった。




ポールは、


ジャンがいなくなってからというもの、


以前より頻繁に家へ顔を出すようになった。




「ローズ、今度食事でも行かないか」




「荷物、持つよ」




「今日は仕事、疲れただろ」




そんな何気ない気遣いが、少しずつ、姉だけに向けられていく。




なんてことはない。




ポールもまた、姉に恋をしていた一人だった。ジャンというライバルが脱落した途端、彼はまるで待っていたかのように、姉へとアタックし始めた。




私は、それを見てまた――




心の奥に棲みついた、あの昏くて冷たい炎が、再び静かに揺れていく。




どこか他人事のような、遠い温度だったはずなのに。




それは、決して私から離れようとはしなかった。




どうしても、この気持ちを抑えなければならない。


そう思えば思うほど、喉の奥に何かがせり上がってくるような感覚があった。




錨を下ろしたつもりでいた場所から、少しずつ、少しずつ、船が流されていく。




その感覚に、抗えなかった。




結婚してからだった気がする。彼はいつも、幸せそうに笑っていた。




ただ、一つだけ。




姉の、唯一の綻び。


そう呼ぶには、あまりにも外道な話なのだろうけれど。




父を亡くしてから体調を崩した実母を見舞いに行く、土曜日の夕方。


彼は、少し寂しげに、時間を持て余していた。




「……あれ? 姉さんは?」




私はあまりにもわざとらしく、それでいて自然な声で、そう尋ねた。




ポールは、当然のように、私に対して『義理の妹』以上の感情など、何一つ見せなかった。




「ああ、お義母さんのとこに行ってるんだ」




その声には、少しだけ寂しさが滲んでいた。




「ふうん。義兄さんって、お姉ちゃんのこと本当に大好きなんだよね。妹として嬉しいわ」




最初は、それだけのやり取りだった。ただの、他愛のない世間話。




けれど、次第に、彼はその空白を埋めるように


――あるいは、週末までの疲れを癒すかのように。




土曜日の夜にだけ、飲みに行く。




そんな習慣が、いつしか出来上がっていた。




加えて、彼は酒に弱かった。


そこを、つつけばよかった。


ただ、それだけのことだった。




まるで熟れすぎた果実に、指先で触れるだけでよかったみたいに。




あまりにも容易く、


一線は越えられてしまった。




そこからは、一度起きてしまった雪崩を、誰も止めることができないように、何度も逢瀬を重ねた。




手を伸ばすたび、沼の水位が、また少し上がっていくのが分かった。




それでも、足を引き抜こうとは思わなかった。むしろ、もっと深く沈んでいきたいと、どこかで願っていた。




そして、とうとう、彼に言わせたのだ。




『ルーシー、君が好きだ』


『ローズなんかよりも、ずっと君が』


『会いたい』


『君なしでは、いられない』




その言葉を聞いた時だけは。


ああ。


やっと勝てた。 




生まれて初めて、


姉より私が選ばれたのだと、




本気で思ってしまった。




でも、




それは、ただの崩落への始まりでした。




彼は――ポールは、その身を『狼』へと食い尽くされてしまった。










セラファンの声は、いつまでも変わらぬ温かさを保っていた。




「あなたの荷物は、まだ全て下ろしきれていない。……それでいいのです。少しずつで、構いません」




ルーシーは、涙で濡れた頬を、震える手のひらでそっと拭った。




「……ありがとうございます、司祭様」




「今夜も、また同じこの場所でお待ちしていますよ」




格子の隙間から差し込む蝋燭の光が、彼の輪郭を淡く縁取っていた。




その光に照らされて、初めて、ルーシーはそれに気がついた。




いつもの黒い司祭服の上


――彼の首元に掛けられたストラが、これまで見たどの色とも違う。




深く沈む紫ではない。




眩いほどの、白だった。




まるで祝福そのものを纏っているかのような、その白さ。


四旬節の間中、街を覆っていた重たい紫の影は、もうどこにもない。




「イースターが……」




ルーシーは、思わずそう呟いていた。




「ええ」




セラファンは、静かに頷いた。




「主が甦られた、喜びの季節です。


あなたの魂もまた、いつか必ず、光の中へ帰ることができますよ」




その白いストラは、蝋燭の灯りを受けて、まるでそれ自体が発光しているかのようだった。


慈愛に満ちた微笑みと、清らかな白の衣。




ルーシーの目に映るその姿は、この世のものとは思えないほど、神々しかった。




彼女は、深く頭を下げた。




「また、来週……いえ」




言いかけて、ルーシーは言葉を止めた。




「今夜、また、いらしてもいいのですよね」




「もちろんです」




セラファンの声に、迷いはなかった。




「私は、ここで、あなたをお待ちしていますから」




告解室を出たルーシーの足取りは、来た時よりも、いくらか軽くなっていた。




彼女の背中を見送りながら、セラファンは静かに、格子の向こうで目を細めていた。




その白いストラの裾が、


蝋燭の炎に揺れて、ほんの一瞬、




影のように黒く沈んで見えた。

お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。

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