第27話:すれ違う祈り
長屋の戸を叩いても、返事はなかった。
先生が戸に手をかけると、鍵はかかっていなかった。
軋んだ音を立てて開いた扉の向こうに広がっていたのは、驚くほど静まり返った部屋だった。
食卓の上には、手つかずのままのパンが一切れ、皿に乗っていた。
ランプには火が入っていない。
ベッドの上掛けは、乱れたまま、誰かが慌ただしく立ち去った痕跡を残していた。
「……いない」
先生が短く呟いた。
私は、その静けさに、ただ胸騒ぎだけを募らせていた。
「近くに、誰か知っている人がいるはずだ」
先生はそう言うと、迷わず隣の戸を叩いた。
出てきたのは、初老の女性だった。
ルーシーの隣人だという彼女は、私たちの問いかけに、しばらく考え込むような表情を見せた。
「ルーシーちゃんかい?……さあね、今日はどこに出かけたか、私にはちょっと」
「最近の様子で、何か気づいたことは」
先生の問いに、彼女は少し眉を寄せた。
「そう言えば……。
ここ最近、いつもより緊張してたみたいに見えたけどね」
それだけだった。
彼女はそれ以上の手がかりを持ち合わせていなかった。行き先も、理由も、何一つ。
先生は、それだけを聞くと、静かに礼を言って戸を離れた。
「先生……」
私は、その背中に問いかけたが、答えは返ってこなかった。
先生はただ、ローズさんの家がある方角へと、迷いのない足取りで歩き出していた。
その足音が、大聖堂とは正反対の方向へと、確かに遠ざかっていくのを、私はまだ気づいていなかった。
◆
格子の隙間から、深い臙脂色の背表紙が、まず先に覗いた。
まるで、それ自体が合図であるかのように。
「………その。」
聖書を握りしめたまま、
ルーシーの声は小さく震えていた。
格子の向こうで、蝋燭の灯りに照らされたセラファンの輪郭が、微かに揺れる。
「ああ、今週も来てくださったのですね。お待ちしておりましたよ。
よく、来てくださいましたね」
その声は、
狭い告解室の中に、静かに満ちていく。
乳香の甘い香りが、木造りの小部屋に薄く漂っていた。
息を吸うたび、その香りが肺の奥まで沁みていくようだった。
「今日は、『お話』出来そうですか?
……もちろん、あなたのペースで構いませんから」
決して急かさない。
声は、どこまでも優しい。
格子の目が細かく、彼の表情までは読み取れない。
それでも、ルーシーには分かった。
今、格子の向こうにいる人物は、生まれたての子供を見つめる聖母のような、慈しみに満ちた眼差しをしているのだと。
「……ありがとうございます。司祭様」
ルーシーは、一度深く息を吸い込んだ。
甘い香りが、胸の奥にまで沈んでいく。
その瞳の奥には、先週とは違う色が宿っていた。
迷いの色ではない。
覚悟の色だった。
「私は、本当に浅ましいことに……昔から、姉のものが欲しかったんです」
「はい。
……例えば、どのようなものでしょう」
急かさない。
相手の答えを、ただ愚直に待つ。
そんな確かな意志だけが、格子の向こうから伝わってくる。
「最初は……お人形でした。
父が仕事帰りに、姉には人形を、私には絵本を。お土産に、買ってきてくれたのです」
「はい」
蝋燭の灯りが、小さく揺れた。
「お人形は、赤毛の三つ編みの可愛い女の子で。姉によく似ていたから、父は買ったんだと思います。
……でも」
言葉が、一度、途切れる。
「それを、姉が嬉しそうに手にした瞬間でした」
ルーシーの指先が、
聖書の背表紙にめり込むほど、白く変色していく。
「『あれは、私のほうが似合う』
――そう、思ってしまったのです」
その声は、懺悔というより、まるで自分自身への断罪のように響いた。
「……それが、始まりでした」
格子の向こうで、セラファンは、静かに耳を澄ませていた。
「そのことに気づいてからは……。姉だけに与えられたもの。それに対して、強く『欲しい』が出てしまうこと。それを抑えることが、難しくなっていったのです」
格子の向こうで、セラファンの瞳に、何かが宿った。
それが何であるのか、ルーシーが窺い知ることは出来なかった。ただ静かに、そこにあるだけの、名付けようのない色だった。
彼女は、堰を切ったように話し続けた。感情の氾濫は、もう止められなかった。
「些細なもの
……例えば、姉はクロワッサン、私はブリオッシュ。それなのに私はこう言いました。『私はクロワッサンがいい!』、と。……姉はとても優しくて、笑顔で『ルーシー、いいわ。お姉ちゃんのと交換しよう』。そう言ってくれて。
いつも、半分こか交換を、
姉の方から提案してくれたのです」
「続けてください」
短い言葉だった。
けれど、その一言だけが、彼女の告白を先へと導く道標のように、静かに置かれていた。
「ある日、コッソリ、お母さんが長女である姉に、代々我が家に伝わっている青い石の指輪を……。
『あなたがお嫁に行く時にこれを身につけるのよ』って言うのが、聞こえて」
ルーシーの声が、掠れる。
「また思ったんです。……『それは、私の方が似合うのに』って」
その瞳からは、既に幾筋もの涙がこぼれ落ちていた。
頬を伝う雫が、格子の隙間から漏れる蝋燭の光を、鈍く反射する。
「でも、それは『頂戴』って言っても、お姉ちゃんは困った顔をするばかりでした。何だか、もっともっと、欲しくなってしまったの。
……ハァ。私、おかしいでしょう……司祭様。こんな……ッ」
「あなたは、どこもおかしくありません。……そう。苦しみ続けてこられたのですね。」
その声は、揺るぎなかった。
まるで、これまでの全ての苦しみを、丸ごと抱き取るような響きだった。
「ただ、眩しく見えてしまったのでしょう。それは、誰にでも持ち得る感情ですよ。それを、私が咎めることなど、できはしません」
「……司祭様……」
ルーシーの声が、震えながら零れる。
告解室の狭い空間に、乳香の香りが、まるで彼女の涙に応えるかのように、いっそう濃く漂っていた。
「さあ。まだ、あるのでしょう? 大丈夫ですよ」
セラファンの声は、どこまでも凪いでいた。
「この部屋で、あなたの話を聞いているのは、主と、その使いである私だけ。
安心して、その荷物を、私にお預けください」
格子の向こうで、
彼はゆっくりとその目を細めていた。
蝋燭の火が、ひとつ、また揺れる。
まだ、夜には遠い時刻だった。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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