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告解者  作者: カナタ


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第27話:すれ違う祈り






長屋の戸を叩いても、返事はなかった。


先生が戸に手をかけると、鍵はかかっていなかった。


軋んだ音を立てて開いた扉の向こうに広がっていたのは、驚くほど静まり返った部屋だった。




食卓の上には、手つかずのままのパンが一切れ、皿に乗っていた。


ランプには火が入っていない。


ベッドの上掛けは、乱れたまま、誰かが慌ただしく立ち去った痕跡を残していた。




「……いない」




先生が短く呟いた。




私は、その静けさに、ただ胸騒ぎだけを募らせていた。




「近くに、誰か知っている人がいるはずだ」




先生はそう言うと、迷わず隣の戸を叩いた。




出てきたのは、初老の女性だった。




ルーシーの隣人だという彼女は、私たちの問いかけに、しばらく考え込むような表情を見せた。




「ルーシーちゃんかい?……さあね、今日はどこに出かけたか、私にはちょっと」




「最近の様子で、何か気づいたことは」




先生の問いに、彼女は少し眉を寄せた。




「そう言えば……。


ここ最近、いつもより緊張してたみたいに見えたけどね」




それだけだった。




彼女はそれ以上の手がかりを持ち合わせていなかった。行き先も、理由も、何一つ。




先生は、それだけを聞くと、静かに礼を言って戸を離れた。




「先生……」




私は、その背中に問いかけたが、答えは返ってこなかった。


先生はただ、ローズさんの家がある方角へと、迷いのない足取りで歩き出していた。




その足音が、大聖堂とは正反対の方向へと、確かに遠ざかっていくのを、私はまだ気づいていなかった。











格子の隙間から、深い臙脂色の背表紙が、まず先に覗いた。




まるで、それ自体が合図であるかのように。




「………その。」




聖書を握りしめたまま、


ルーシーの声は小さく震えていた。




格子の向こうで、蝋燭の灯りに照らされたセラファンの輪郭が、微かに揺れる。




「ああ、今週も来てくださったのですね。お待ちしておりましたよ。


よく、来てくださいましたね」




その声は、


狭い告解室の中に、静かに満ちていく。




乳香の甘い香りが、木造りの小部屋に薄く漂っていた。


息を吸うたび、その香りが肺の奥まで沁みていくようだった。




「今日は、『お話』出来そうですか?


……もちろん、あなたのペースで構いませんから」




決して急かさない。




声は、どこまでも優しい。


格子の目が細かく、彼の表情までは読み取れない。


それでも、ルーシーには分かった。




今、格子の向こうにいる人物は、生まれたての子供を見つめる聖母のような、慈しみに満ちた眼差しをしているのだと。




「……ありがとうございます。司祭様」




ルーシーは、一度深く息を吸い込んだ。




甘い香りが、胸の奥にまで沈んでいく。


その瞳の奥には、先週とは違う色が宿っていた。


迷いの色ではない。




覚悟の色だった。




「私は、本当に浅ましいことに……昔から、姉のものが欲しかったんです」




「はい。


……例えば、どのようなものでしょう」




急かさない。




相手の答えを、ただ愚直に待つ。


そんな確かな意志だけが、格子の向こうから伝わってくる。




「最初は……お人形でした。


父が仕事帰りに、姉には人形を、私には絵本を。お土産に、買ってきてくれたのです」




「はい」




蝋燭の灯りが、小さく揺れた。




「お人形は、赤毛の三つ編みの可愛い女の子で。姉によく似ていたから、父は買ったんだと思います。


……でも」




言葉が、一度、途切れる。




「それを、姉が嬉しそうに手にした瞬間でした」




ルーシーの指先が、


聖書の背表紙にめり込むほど、白く変色していく。




「『あれは、私のほうが似合う』


――そう、思ってしまったのです」




その声は、懺悔というより、まるで自分自身への断罪のように響いた。




「……それが、始まりでした」




格子の向こうで、セラファンは、静かに耳を澄ませていた。




「そのことに気づいてからは……。姉だけに与えられたもの。それに対して、強く『欲しい』が出てしまうこと。それを抑えることが、難しくなっていったのです」




格子の向こうで、セラファンの瞳に、何かが宿った。




それが何であるのか、ルーシーが窺い知ることは出来なかった。ただ静かに、そこにあるだけの、名付けようのない色だった。




彼女は、堰を切ったように話し続けた。感情の氾濫は、もう止められなかった。




「些細なもの


……例えば、姉はクロワッサン、私はブリオッシュ。それなのに私はこう言いました。『私はクロワッサンがいい!』、と。……姉はとても優しくて、笑顔で『ルーシー、いいわ。お姉ちゃんのと交換しよう』。そう言ってくれて。


いつも、半分こか交換を、


姉の方から提案してくれたのです」




「続けてください」




短い言葉だった。


けれど、その一言だけが、彼女の告白を先へと導く道標のように、静かに置かれていた。




「ある日、コッソリ、お母さんが長女である姉に、代々我が家に伝わっている青い石の指輪を……。


『あなたがお嫁に行く時にこれを身につけるのよ』って言うのが、聞こえて」




ルーシーの声が、掠れる。




「また思ったんです。……『それは、私の方が似合うのに』って」




その瞳からは、既に幾筋もの涙がこぼれ落ちていた。


頬を伝う雫が、格子の隙間から漏れる蝋燭の光を、鈍く反射する。




「でも、それは『頂戴』って言っても、お姉ちゃんは困った顔をするばかりでした。何だか、もっともっと、欲しくなってしまったの。


……ハァ。私、おかしいでしょう……司祭様。こんな……ッ」




「あなたは、どこもおかしくありません。……そう。苦しみ続けてこられたのですね。」




その声は、揺るぎなかった。




まるで、これまでの全ての苦しみを、丸ごと抱き取るような響きだった。




「ただ、眩しく見えてしまったのでしょう。それは、誰にでも持ち得る感情ですよ。それを、私が咎めることなど、できはしません」




「……司祭様……」




ルーシーの声が、震えながら零れる。




告解室の狭い空間に、乳香の香りが、まるで彼女の涙に応えるかのように、いっそう濃く漂っていた。




「さあ。まだ、あるのでしょう? 大丈夫ですよ」




セラファンの声は、どこまでも凪いでいた。




「この部屋で、あなたの話を聞いているのは、主と、その使いである私だけ。


安心して、その荷物を、私にお預けください」




格子の向こうで、


彼はゆっくりとその目を細めていた。




蝋燭の火が、ひとつ、また揺れる。




まだ、夜には遠い時刻だった。

お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。

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