第26話:喪明けの影
街の空気が、少しずつ変わり始めていた。
市場の軒先には、
色とりどりに彩られた卵が並び始め、
子供たちはそれを覗き込んでは歓声を上げている。
パン屋の店先には、
これまで見なかった甘い菓子パンの匂いが漂うようになった。
「先生、もうすぐイースターですね」
私は思わず、弾んだ声を上げていた。
「やっと卵、食べれるわ」
自分でも驚くほど、その言葉には屈託がなかった。
ここ最近、ずっと張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩んでいるのを感じる。
先生は、それに肯定も否定も返さなかった。ただ、前を見据えたまま、静かに口を開く。
「……別のことが、始まらなければいいんだがな」
その低い声には、私の浮ついた気分を戒めるような、あるいはもっと別の何かを見透かしているような、静かな重みがあった。
私は、少しだけ気まずくなって、
そっと口を噤んだ。
◆
大通りを歩いていると、見覚えのある姿があった。
ローズさんだ。
以前の、あの死人のように白い顔とは違う。まだ完全ではないにせよ、頬にわずかな血の気が戻っている。
傍らには、いつものようにカリーヌさんが寄り添っていた。
「ローズさん」
私は、思わず駆け寄って声をかけていた。
ローズさんは、私に気づくと、小さく会釈を返してくれた。以前なら、視線すら合わせてくれなかったのに。
「顔色、良くなってるみたいだ」
先生が、静かにそう言った。
短い、飾り気のない言葉だった。
けれど、私はその一言に、これまで先生から聞いたどんな労いの言葉よりも、深い安堵の色が滲んでいるのを感じ取った。
「ええ。カリーヌさんが、ずっと傍にいてくれるから」
ローズさんは、そう言って微笑んだ。
その微笑みは、まだどこか脆く、無理をして形作られているようにも見えたけれど、確かに以前とは違う、生きようとする意志の色を宿していた。
私は、その変化に安堵して、思わず頬を緩めた。
けれど――
カリーヌさんの表情に、ほんの一瞬、翳りが差したのを、私は見逃していた。
それに気づいたのは、先生だった。
先生の視線が、一瞬だけカリーヌさんの顔に留まり、それからすぐに、何事もなかったかのように逸らされる。
私たちは、それ以上長居することなく、二人と別れた。
◆
夕刻。
先生は、私を連れて、カリーヌさんの家の戸を叩いた。
「先生、どうしたの?」
「気になることがある」
それだけ言って、先生は戸口の前で待った。
戸を開けたカリーヌさんは、私たちの顔を見た瞬間、驚いたように目を見開いた。それから、その表情がゆっくりと、安堵したものへと変わっていく。
まるで、一人で抱えきれなかった何かを、ようやく誰かに預けられる
――そんな顔だった。
「……アンタたち、よく気づいてくれたね」
カリーヌさんは、深く息を吐いた。
「いやね、気のせいだと思うんだよ? ただの、年寄りの取り越し苦労かもしれない」
そう前置きしながらも、彼女の声には隠しきれない不安が滲んでいた。
「ローズちゃんの妹で、ルーシーちゃんっていう子がいるんだ。
……あの子がね、この間、様子がおかしくてね」
私と先生は、無言のまま、顔を見合わせた。
「元々、あの二人は仲の良い姉妹でね。子供の頃は、見ていて微笑ましいくらいだったよ」
カリーヌさんは、遠い記憶を辿るように、目を細めた。
「ただ、ちょっとだけね。ルーシーちゃんは昔から、お姉ちゃんの持ち物を欲しがる子ではあったんだ」
「持ち物、ですか?」
「人形とか、クロワッサンとか。ローズちゃんのお母さんが、ローズちゃんにあげるって約束してた宝石まで。……何でもかんでも『私もほしい、お姉ちゃんちょうだい』ってね」
カリーヌさんは、そこで小さく笑った。
ただ、その笑みには、どこか無理に軽くしているような色があった。
「まあ、子供にはよくあるワガママだろ。私も、当時はそう思ってたんだよ」
一拍、置く。
「……一度だけ、大喧嘩してるのを見たことがあってね」
その声のトーンが、わずかに沈んだ。
「ローズちゃんが結婚する前に、付き合ってた恋人がいたんだ。
それを、ルーシーちゃんが……。
ローズちゃんは、普段声を荒げて怒るような子じゃないんだよ。
本当に、大人しい子でね。
それなのに、あの時ばかりは違った」
「その恋人とは、それで?」
「破局さ。それが原因でね。
……かといって、ルーシーちゃんとどうにかなったわけでもなかったみたいだけど」
カリーヌさんは、一度言葉を切り、それからゆっくりと続けた。
「まあ、その後、ローズちゃんは幼馴染のポールと結婚して、幸せになったんだよ。だから、それでよかったんだ。それで、終わった話のはずだったんだよ」
そこで、彼女の表情が、急に強張った。
「……アンタたち、聞いただろう。ローズちゃんが、前に言ってたこと」
私の脳裏に、あの日の光景が蘇る。
震える声で「妹のルーシーと……ううん、違う」と、自分の言葉を打ち消したローズさんの姿。
「あの言葉が、妙に引っ掛かっててね」
カリーヌさんは、両手を強く握りしめた。
「年寄りの戯言、それで片付くんなら、それが一番いいんだけどね」
彼女の声は、そこで小さく震えていた。
カリーヌさんの言葉が途切れた後、しばらく誰も何も言わなかった。
先生は、腕を組んだまま、静かにカリーヌさんを見つめていた。
「……ルーシーは、今どこに住んでいる」
感情の色を一切滲ませない、平坦な声だった。
「え、ええと……。街の南側、織物工場の裏手にある長屋だよ。一人暮らしでね」
「様子がおかしくなったのは、いつ頃からだ」
「さあ……。いつ、と言われると、はっきりとは。ただ、この一月ほどは、特にね……。人と目を合わせなくなったし、姉のところにも寄り付かなくなった。そうだね、ちょうどポールが亡くなった頃からかね」
先生は、それだけを聞くと、小さく頷いた。
「分かった」
たったそれだけだった。
カリーヌさんが不安げに眉を寄せる。
「……それだけかい?」
「これ以上、今ここで聞き出せることはない」
先生の声には、突き放すような響きはなかった。ただ、必要なことと、そうでないことを、冷静に切り分けているだけだった。
「教えてくれて助かった」
そう言って、先生は立ち上がった。
私は、慌ててその背中を追う。
カリーヌさんの家の戸を出る間際、ふと横目で先生の表情を窺った。
その横顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
けれど、その静けさの奥に、何か焦りにも似た熱が、確かに揺れているような気がした。
外に出ると、日はもう傾き始めていた。
「先生」
私は、思わずその背中に問いかけた。
「ルーシーさんのこと、心配なんですか?」
先生は、しばらく答えなかった。歩く速度も変えないまま、前だけを見ている。
「――手遅れになる前に、確かめておくべきことがあるだけだ」
その言葉の意味を、私はまだ、正確には理解できていなかった。
けれど、先生の足取りが、いつもよりわずかに速いことにだけは、気づいていた。
教会の鐘が、街に夕刻を告げていた。
それは土曜日の16時のことだった。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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