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告解者  作者: カナタ


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第26話:喪明けの影





街の空気が、少しずつ変わり始めていた。





市場の軒先には、


色とりどりに彩られた卵が並び始め、


子供たちはそれを覗き込んでは歓声を上げている。




パン屋の店先には、


これまで見なかった甘い菓子パンの匂いが漂うようになった。




「先生、もうすぐイースターですね」




私は思わず、弾んだ声を上げていた。




「やっと卵、食べれるわ」




自分でも驚くほど、その言葉には屈託がなかった。


ここ最近、ずっと張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩んでいるのを感じる。




先生は、それに肯定も否定も返さなかった。ただ、前を見据えたまま、静かに口を開く。




「……別のことが、始まらなければいいんだがな」




その低い声には、私の浮ついた気分を戒めるような、あるいはもっと別の何かを見透かしているような、静かな重みがあった。




私は、少しだけ気まずくなって、


そっと口を噤んだ。









大通りを歩いていると、見覚えのある姿があった。




ローズさんだ。




以前の、あの死人のように白い顔とは違う。まだ完全ではないにせよ、頬にわずかな血の気が戻っている。


傍らには、いつものようにカリーヌさんが寄り添っていた。




「ローズさん」




私は、思わず駆け寄って声をかけていた。


ローズさんは、私に気づくと、小さく会釈を返してくれた。以前なら、視線すら合わせてくれなかったのに。




「顔色、良くなってるみたいだ」




先生が、静かにそう言った。




短い、飾り気のない言葉だった。


けれど、私はその一言に、これまで先生から聞いたどんな労いの言葉よりも、深い安堵の色が滲んでいるのを感じ取った。




「ええ。カリーヌさんが、ずっと傍にいてくれるから」




ローズさんは、そう言って微笑んだ。




その微笑みは、まだどこか脆く、無理をして形作られているようにも見えたけれど、確かに以前とは違う、生きようとする意志の色を宿していた。




私は、その変化に安堵して、思わず頬を緩めた。




けれど――


カリーヌさんの表情に、ほんの一瞬、翳りが差したのを、私は見逃していた。




それに気づいたのは、先生だった。




先生の視線が、一瞬だけカリーヌさんの顔に留まり、それからすぐに、何事もなかったかのように逸らされる。




私たちは、それ以上長居することなく、二人と別れた。







夕刻。




先生は、私を連れて、カリーヌさんの家の戸を叩いた。




「先生、どうしたの?」




「気になることがある」




それだけ言って、先生は戸口の前で待った。


戸を開けたカリーヌさんは、私たちの顔を見た瞬間、驚いたように目を見開いた。それから、その表情がゆっくりと、安堵したものへと変わっていく。




まるで、一人で抱えきれなかった何かを、ようやく誰かに預けられる


――そんな顔だった。




「……アンタたち、よく気づいてくれたね」




カリーヌさんは、深く息を吐いた。




「いやね、気のせいだと思うんだよ? ただの、年寄りの取り越し苦労かもしれない」




そう前置きしながらも、彼女の声には隠しきれない不安が滲んでいた。




「ローズちゃんの妹で、ルーシーちゃんっていう子がいるんだ。


……あの子がね、この間、様子がおかしくてね」




私と先生は、無言のまま、顔を見合わせた。




「元々、あの二人は仲の良い姉妹でね。子供の頃は、見ていて微笑ましいくらいだったよ」




カリーヌさんは、遠い記憶を辿るように、目を細めた。




「ただ、ちょっとだけね。ルーシーちゃんは昔から、お姉ちゃんの持ち物を欲しがる子ではあったんだ」




「持ち物、ですか?」




「人形とか、クロワッサンとか。ローズちゃんのお母さんが、ローズちゃんにあげるって約束してた宝石まで。……何でもかんでも『私もほしい、お姉ちゃんちょうだい』ってね」




カリーヌさんは、そこで小さく笑った。




ただ、その笑みには、どこか無理に軽くしているような色があった。




「まあ、子供にはよくあるワガママだろ。私も、当時はそう思ってたんだよ」




一拍、置く。




「……一度だけ、大喧嘩してるのを見たことがあってね」




その声のトーンが、わずかに沈んだ。




「ローズちゃんが結婚する前に、付き合ってた恋人がいたんだ。


それを、ルーシーちゃんが……。


ローズちゃんは、普段声を荒げて怒るような子じゃないんだよ。


本当に、大人しい子でね。


それなのに、あの時ばかりは違った」




「その恋人とは、それで?」




「破局さ。それが原因でね。


……かといって、ルーシーちゃんとどうにかなったわけでもなかったみたいだけど」




カリーヌさんは、一度言葉を切り、それからゆっくりと続けた。




「まあ、その後、ローズちゃんは幼馴染のポールと結婚して、幸せになったんだよ。だから、それでよかったんだ。それで、終わった話のはずだったんだよ」




そこで、彼女の表情が、急に強張った。




「……アンタたち、聞いただろう。ローズちゃんが、前に言ってたこと」




私の脳裏に、あの日の光景が蘇る。




震える声で「妹のルーシーと……ううん、違う」と、自分の言葉を打ち消したローズさんの姿。




「あの言葉が、妙に引っ掛かっててね」




カリーヌさんは、両手を強く握りしめた。




「年寄りの戯言、それで片付くんなら、それが一番いいんだけどね」




彼女の声は、そこで小さく震えていた。




カリーヌさんの言葉が途切れた後、しばらく誰も何も言わなかった。




先生は、腕を組んだまま、静かにカリーヌさんを見つめていた。




「……ルーシーは、今どこに住んでいる」




感情の色を一切滲ませない、平坦な声だった。




「え、ええと……。街の南側、織物工場の裏手にある長屋だよ。一人暮らしでね」




「様子がおかしくなったのは、いつ頃からだ」




「さあ……。いつ、と言われると、はっきりとは。ただ、この一月ほどは、特にね……。人と目を合わせなくなったし、姉のところにも寄り付かなくなった。そうだね、ちょうどポールが亡くなった頃からかね」




先生は、それだけを聞くと、小さく頷いた。




「分かった」




たったそれだけだった。




カリーヌさんが不安げに眉を寄せる。




「……それだけかい?」




「これ以上、今ここで聞き出せることはない」




先生の声には、突き放すような響きはなかった。ただ、必要なことと、そうでないことを、冷静に切り分けているだけだった。




「教えてくれて助かった」




そう言って、先生は立ち上がった。




私は、慌ててその背中を追う。


カリーヌさんの家の戸を出る間際、ふと横目で先生の表情を窺った。




その横顔には、何の感情も浮かんでいなかった。


けれど、その静けさの奥に、何か焦りにも似た熱が、確かに揺れているような気がした。




外に出ると、日はもう傾き始めていた。




「先生」




私は、思わずその背中に問いかけた。




「ルーシーさんのこと、心配なんですか?」




先生は、しばらく答えなかった。歩く速度も変えないまま、前だけを見ている。




「――手遅れになる前に、確かめておくべきことがあるだけだ」




その言葉の意味を、私はまだ、正確には理解できていなかった。




けれど、先生の足取りが、いつもよりわずかに速いことにだけは、気づいていた。




教会の鐘が、街に夕刻を告げていた。




それは土曜日の16時のことだった。

お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。

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