第25話:扉
カリーヌは、いつものように籠を提げて市場からの帰り道を歩いていた。
ローズの家が見える角を曲がろうとした、その時だった。
路地の陰に、見覚えのある人影があった。
ルーシーだ。
あの子が、こんな所で何をしているのだろう。
カリーヌは足を止め、しばらくその様子を窺った。
ルーシーは、ローズの家の戸口から十歩ほど離れた場所に立ち尽くしていた。
何かを迷うように、爪先が戸口の方へ、また離れる方へと、行きつ戻りつを繰り返している。
その手には、一冊の本が抱えられていた。
深い臙脂色の革張り。
ルーシーはそれを、まるで縋るように、両手で胸元に押し付けている。
一歩、踏み出す。
けれど、戸口までの距離が半分も縮まらないうちに、その足はまた止まった。
本を抱える指先が、微かに震えているのが、離れた場所からでも分かった。
ルーシーは俯き、唇を噛んだ。
それから、抱えた本を開くでもなく、ただ表紙を撫でるように指を這わせる。
何度も、何度も。
まるでその感触だけが、彼女をこの場に繋ぎ止めているかのようだった。
カリーヌは、声をかけようと一度口を開きかけた。けれど、その喉から出かかった言葉は、形になる前に喉の奥へと押し戻された。
あの顔だ。
カリーヌは、ふと思い出す。
あの日――
ローズが震える声で「妹のルーシーと……ううん、違う」と、自分で自分の言葉を打ち消した、あの日のことを。
あの時は、深く考えなかった。
悲しみに沈んだ人間が、ふと零す取り留めのない言葉の一つだと思っていた。
けれど今、目の前で戸口に近づけずにいるルーシーの姿を見ていると、あの一言が、急に別の重みを持って胸の奥に沈んでいく。
ルーシーは、結局その日、戸口を跨ぐことはなかった。
抱えていた本をもう一度、強く胸に押し付けると、来た道を振り返ることもせず、足早にその場を去っていった。
カリーヌは、遠ざかっていくその背中を、しばらく見送っていた。
手にした籠の中で、買ったばかりのパンが、まだ温かいままだった。
その温もりだけが、今のカリーヌには、ひどく場違いなもののように感じられた。
◆
四旬節の終わりが、
もうすぐそこまで迫っていた。
セラファンは、その日、大聖堂の用向きを済ませた足で、街の目抜き通りを歩いていた。
数珠繋ぎの信徒たちの喧騒からも、告解室の静けさからも離れた、ただの一人の通行人としての時間だった。
こういう時間を、彼は特別好むわけでも、嫌うわけでもない。
ただ、体が求めるままに、足を運んでいるだけだった。
雑貨屋の軒先を過ぎ、パン屋の焼ける匂いを通り過ぎたところで、視界の端に、紅色が過ぎった。
歩みを止めるほどのことでもない。
ただ、目だけがその色を追った。
紅い頭巾を目深に被った少女が、通りの向こうを歩いていく。
俯きがちな足取り、周囲を警戒するような肩の強張り方
――それが誰なのか、
セラファンはすぐに分かった。
あの日、聖堂の柱の陰から自分を見つめていた視線と、同じ質のものを持つ少女だった。
――ああ。
黒ではなかった。
聖堂で見た時の、あの深く沈む黒いベールは、彼女には似合わないと、あの時も思った。
理由を、深く考えたことはない。
ただ、そぐわないと感じただけだった。
赤、だったんだね。
その色は、彼女の輪郭を、街の灰色の景色の中からくっきりと切り取っていた。
まるで、そこだけ血の色が滲んでいるかのように。
セラファンは唇の端を、ほんの僅かに緩ませた。
それは慈愛に満ちた微笑みとも違う、誰に向けるでもない、ごく個人的な満足の形をしていた。
――君には、赤がよく似合う。
声には出さなかった。
出す必要も、感じなかった。
それだけを胸の内で結論づけると、彼はまた、何事もなかったかのように歩き出した。
少女の視界に入ることも、声をかけることもせず、ただ通りの角を折れて、
その姿を静かに消していった。
◆
ふと、うなじの辺りに、微かな違和感を覚えた。
誰かに見られている
――そんな気配だった。
私は足を止め、辺りを見回した。
雑貨屋の軒先、パン屋の煙、行き交う人々の合間。目に映るのは、いつもと変わらない街の午後の風景でしかなかった。
けれど、その違和感だけが、しばらく肌の表面に纏わりついて離れなかった。
気のせいだろうか。
そう結論づけようとした矢先、ふと、通りの向こうの角に、誰かの外套の裾が一瞬だけ揺れて消えるのが見えた気がした。
黒の、外套だった。
私は、それが誰の後ろ姿だったのかを確かめる前に、もうその角を曲がることはできなかった。
少しだけ、寒気が走った。
その理由を説明することが出来ないまま、私は先生の待つ宿屋へと戻っていった。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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