第24話:選別
【一人目】16時10分
格子の向こうから、
しわがれた声が続いていた。
「……それでね、セラファン様ぁ。近頃、隣の家の鶏が朝から騒がしくてねぇ。
文句を言おうにも、もう長い付き合いだから、角も立てられなくてねぇ」
セラファンは、いつもと変わらぬ相槌を打っていた。
「それは、お辛いですね」
「よく我慢なさいましたね」
「あなたの隣人への忍耐は、主もきっとお喜びになるでしょう」
丁寧に紡がれる言葉の連なりは、他のどの告解の時とも変わらない。
けれど、その蒼い瞳だけは、
格子の向こうの老いた声に、
少しも揺れなかった。
指先も、祈祷書の上で静かに止まったままだった。
やがて、祝福の言葉と共に、老婆は満足げな溜め息を残して去っていく。
「今夜、もう一度いらっしゃいますか?」
その、いつもの誘い文句すら、今日は紡がれなかった。
老婆はそんなことにも気づかぬまま、軽い足取りで教会を後にした。
セラファンは閉じられた格子を、しばらく静かに見つめていた。
やがて静かに祈祷書を閉じ、
次の信徒を迎える鐘を鳴らした。
その夜、大聖堂は普段と変わらぬ静けさに包まれていた。
鐘は定刻に鳴り、
蝋燭は静かに燃え尽き、
翌朝も街は、昨日と何一つ変わらぬ顔で目を覚ました。
その日の夜は何も、起こらなかった。
◆
【二人目】16時32分
薄い格子の向こうから、震える声が漏れていた。
言葉になりきらない嗚咽の合間に、途切れ途切れの告白が続く。
姉の名前が出るたび、声はさらに小さくなった。
セラファンは、しばらく黙ってそれを聞いていた。
やがて、彼女の告白が途切れた瞬間――
「大変お待たせいたしました」
その声には、隠しきれない喜色が滲んでいた。
老婆に向けていた、あの凪いだ相槌とはまるで違う。
長く待ちわびていた客を、ようやく出迎えるかのような響きだった。
「司祭様……。私には、昔からいけない癖があるのです」
僅かに、セラファンの瞳が揺れ動く。
相手の言葉を決して遮らないよう、それでいて全身で寄り添うような、温かい声だった。
「癖、ですか……。
ここでは、すべてが秘匿に付されます。どんなに言いにくいことであろうと、神の御前です。どうぞ、自由に吐き出してください」
彼女は、その言葉を受けて、
重い唇を慎重に開いた。
目の端には、僅かに雫が滲んでいる。
「……何と、醜いことでしょう。……ッ。自分でも、分かっているのです……。なのに、止められない」
女の呼吸が、少しずつ荒くなっていく。
「あなたのペースで構いません。
言いにくいことは、伏せておいても構わないのです。
……ですが、もし、どうしても話しておきたいことがあるのなら……」
一拍。
「ここでは、どうか、
すべてをお話しください。
主は、あなたを決してお見放しになりません」
セラファンの表情は、格子越しには見えない。
それでも、まるで宗教画の『神』そのもののような、慈愛に満ちた表情を向けられているのが、ルーシーには伝わった。
後光が差しているかのような、その声の温かさ。
彼女――
ルーシーの孤独な魂を、
解きほぐしていくには十分すぎるものだった。
ふと、ルーシーは、堪らず尋ねていた。
「司祭様は……どうして、そんなに優しく、私の話を聞いてくださるのですか」
格子の向こうで、セラファンは僅かに目を細めた。
「迷えるあなたの言葉を、一言も、聞き漏らさないようにするためにですよ」
その答えに、ルーシーは、疑いもせず、微かに笑った。
――誰かに、こんなふうに聞いてもらえたのは、いつぶりだろう。
震える声で、それでも、言葉は止められないまま零れ落ちていた。
「………っ。私は。本当に浅ましい人間なのです」
俯くルーシー。
「私は……、子供の頃からずっと、ずっと、姉が持っているものが欲しくて、欲しくて堪らないのです!!」
「………それは。お姉様が大切になさっているもの、でしょうか。」
「………呆れるでしょう、司祭様であっても」
ルーシーの顔は、自嘲気味なその声とは裏腹に血の気がすべて引いたかのように真っ青だった。
「私は神に仕える身です。
呆れることなど、あり得ません。
それよりも、あなたの苦しみが、その声から伝わってきます。
……このまま、続けることはできますか?」
コクコクと。
目に涙を滲ませながら、
ルーシーは力強く頷いた。
格子の向こうで、セラファンは僅かに目を細めていた。
「では、どうぞ続けてください」
けれど、その先の言葉は、いつまで経っても紡がれなかった。
喉の奥で、幾度も言葉が詰まる。
震える指先が、麻のスカートの裾を強く握りしめては、また離した。
セラファンは、しばらくその沈黙を、急かすことなく見守っていた。
「……今日は、ここまでにいたしましょうか」
静かな声だった。
「無理に、すべてを吐き出す必要はありません。魂の重荷は、少しずつ下ろしていけばよいのです」
「……申し訳、ございません。司祭様……っ」
「謝ることなど、何一つありませんよ」
彼はそこで、一度、言葉を切った。
「焦らないでください。私は来週も、この時間、同じ部屋であなたをお待ちしています」
そう言って、彼は格子の隙間から、一冊の本を差し出した。
深い臙脂色の革張り。
手に取ったルーシーは、その重みに戸惑うように、両手で受け取った。
「よろしければ、お持ちください。
きっと、あなたの支えになるはずです」
穏やかな声だった。
慈愛に満ちた、いつも通りの声だった。
先ほどの老婆には、そんな言葉も、本さえも、渡されなかったというのに。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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